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妖食フルコース フェスタン <スーヴニール>

   

「しばらくは目も見えない、口もきけない、食べることも寝返りもままならない。フフッ、まるで赤ちゃんね。すみれも角野さんも、もしかしたら、これから数年が一番楽しいんじゃないかしら」

妖食フルコース フェスタン
 ~第12章:スーヴニール~

Illustration:Dite

 

◆スーヴニール◆
《トリュフ・オ・ショコラ、マンディアン》
 ~春の香りのプチカドゥ~

 すべての生き物にとって、たったひとつ、必要なものがある。
 それは食べ物だ。

(ソーロウ)

 真の恐怖を感じると、人間は足がすくんで動けなくなるらしい。
 どんなに逃げようと思っても体がまるで言うことをきかず、間近に迫る底なしの闇に、震える足を取られてしまう。そうしてあっというまに体の半分までが沈み込み、自力では脱出不可能とわかったあたりで、ようやく我に返って泣き叫ぶのだ。
(フフ……わたしの小さな獅子王は、父親似なのね)
 ごほうびの約束を胸に、スタッフルームで大人しく待機しているリオンの顔を思い浮かべながら、すみれの十八番のカクテルを口にする。午後の予定が狂ってしまうのは困り物だったけれど、今夜のパーティーに影響を及ぼすほどではない。これはたぶん、それほど時間のかかる話ではない。わたしは柘榴色の美酒を手に、この思いがけない余興を楽しんでいた。
「ムッシウ? どうかなさって?」
「あ、あ、あんた、たちは…………!」
 この世に、負けないゲームほど愉しいものはない。
 わたしの手札は最初から並びが良くて、次に引くカードで最強の役が完成する。対して相手の手札は、気の毒なことに最弱の役さえ揃わない。この状況は、そんなシチュエーションに近かった。
「どうぞ、シェフからの心尽くしよ。早く召し上がらないと、せっかくの美味しいお肉が冷めてしまうわ」
「ふざけるなッ!」
 咲き乱れる黒薔薇の向こうから不躾な侵入者が現れた瞬間、角野さんが「井原!」とつぶやいたのを、わたしは聞き逃さなかった。
 わたしの小さな獅子王の、以前の名は「井原礼央」。
 侵入者の顔に注意深く目をやれば、たしかに、面差しがリオンに良く似ている。わたしがすかさず「リオンの父親だわ」と囁くと、角野さんがほんの一瞬、息を飲んだ。だから釘を刺すように「もうわたしの子よ」と言ってやったら、角野さんはわずかなためらいもなく「言われるまでもねェよ」と答え、旧知の仲らしい男をダイニングへと招き入れた。
 この先の展開など、決まり切っている。
 わたしたちの「芝居」に、飛び入りの役者なんていらない。
 この哀れな父親もまた、愛しい我が子を取り戻すことなく、舞台から去っていくことになるだろう。そうして物語が一段落する頃には、控えの廊下の片隅に置かれた髑髏が、あるいはふたつに増えるのかもしれない。片翼の天使像の足元を彩っている、あの美しい髑髏が。
 それを約束してくれた角野さんに安堵している自分に気づいて、わたしは自嘲を浮かべた。みずから望んですみれの手を取ったこの男が、わたしたちの世界を裏切るはずがないのに。
「ふざけるな! ふざけるな! あ、あ、あんたたちは狂ってる! 狂ってる!! くるっ、て」
 胃の腑にあったものが食道を逆走し、言葉より先にほとばしる。
 ダイニングの片隅に控えていた繭が、客の粗相を即座にフォローしようとしたが、角野さんが繭の腕を掴んで自分のもとへと引き寄せた。その隣に、すみれがごく自然に、けれど間髪入れずに寄り添う。角野さんはすみれに目配せをすると、ひときわ背の高いシェフ帽を愛娘の手に預けて、不調法を働いた男の前に立った。
「ったく。緊張すると吐くクセ、変わってねェな」
「…………ゆ、さんを」
「あ? 聞こえねェよ、ハッキリ言いな」
 旧知の仲とあって気心が知れているのか、客相手にずいぶん乱暴な物言いをする。リオンの父親はジャケットの袖でグイと口もとを拭うと、角野さんを必死の形相でにらみつけた。
 こうして見ると、リオンの胸に息づいていた熱い正義感もまた、父親譲りなのだとわかる。リオンの父親らしい、キレイに整った顔立ちなのだから、穏やかな笑みを浮かべれば十分男前の範疇に入るだろう。好みのタイプであるだけに、こんな苦しそうな表情ばかりさせてしまうのが、少しもったいなかった。

 

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