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歴史・時代

東京探偵小町 第二十九話「主従の契」 <4>

   

『まだ……まける、わけには』
『さようなら。僕のかわいい小鳥さん。永遠に、さようなら』
 主君の愛する仏蘭西語で告げるや、ニュアージュは青藍の喉首に喰らいついた。

小説版『東京探偵小町
第九部 ―錯綜編―

Illustration:Dite

 

 目の前の青い小鳥を牙に掛けたら、時枝がどれほど悲しむだろう。ほかの誰よりも世話好きで、仕える主君以上に心根の優しいニュアージュにとって、ためらいを捨てるのは容易なことではなかった。
 時枝だけではない。
 病床にある蒼馬もまた、ひどく落胆するに違いない。
 それを思うと、どんな手立てを使っても狩ろうと決めた獲物なのに、心が惑う。ニュアージュは、ちょうど去年の今頃、ひとときの恋の相手として想いを捧げた美しい虎猫を思い出した。時枝や蒼馬を悲しませたら、二人を気に掛けながら帝都を去ったあの虎猫にも、顔向けができないような気がしていた。
(お縞姐さん)
 もう二度と会うことのない相手の顔が、脳裏をよぎる。
 蒼馬が心の拠りどころにしていた虎猫は、芸者の置屋で育ったせいか、気風の良い、男気のある佳人だった。敵ながらも青藍に惹かれるのは、その美しさと気高さが、かつて愛した虎猫に似ているせいなのかもしれないと、ニュアージュは戦いのさなかでかすかに笑った。
(すみません、お縞姐さん)
 体の内外を襲う痛みをこらえながら、ニュアージュは最後の力を振り絞って青藍に狙いを定めた。
 図らずも自分たち主従は、時枝から必要以上のものを奪おうとしている。時枝ひとりを手にできれば十分だったはずなのに、思いもしなかった相手の命を絶とうとしている。いたずらにつけた火が、止める間もなくあたりを巻き込み、すべてを燃やし尽くそうとしている――そんな幻想を追いやって、ニュアージュは足音もなく青藍との間合いを詰めた。
(次の一撃で、必ず)
 月光の下、息を整え、姿勢を低くして瑠璃色の小鳥を狙う。
 青藍もまた、ニュアージュから片時も視線をそらさなかった。小さくとも青藍のくちばしは鋭く、互いにもとの姿で対峙してからというもの、ニュアージュは体の外側にも多くの傷を負っていた。
 相手のどこに傷を負わせれば優位に立てるか、それを考え抜いた青藍が狙ってくるのは、ニュアージュの翡翠の瞳だった。目を潰されてはかなわないとニュアージュも応戦し、傷めているらしい左の翼をかばいつつ飛ぶ青藍の小さな体には、たちまち銀猫の爪による大小の傷が散らばった。
(もたない。僕も小鳥さんも、次が最後)
 夜道で鉢合わせになってから、青藍とニュアージュは互いの隙をうかがいつつ、人気のない場所へと移動していた。だが、浅草界隈という込み入った土地柄、どこもかしこも猥雑な建物だらけである。激しい応酬のさなかで、どこかの仕舞屋の硝子窓を続けざまに割ってしまい、怒声を浴びるほどだった。
 とは言え、すでに夜半を過ぎている。
 こんな夜更けた時間に夜道を通るのはいずれ酔客ばかり、月の明るい晩ではあるが、人間の目には、ただの野良猫の喧嘩騒ぎにしか映らないのだった。
(夏は短夜。もたもたしていたら、夜が明けてしまう)
 朝日に倒れるわけにも、相打ちになるわけにもいかないと、ニュアージュは傷を負った後足にありったけの力を込めた。自分たちが共倒れになって喜ぶのは、時枝の後見人を装って周囲の信望を集め、その実「時機」の到来を待っているリヒトの主君しかいない。どちらかが生き残らなくては、時枝はあっさりと、あのいつわりの医学者の手に落ちてしまうのだ。
 その思いは、青藍も同じだったのだろう。
 逃げることだけに全力を振り絞れば、あるいはその爪と牙から逃れることも不可能ではなかったはずなのに、青藍は逃げる素振りも見せずに立ち向かってくる。時枝を救いたい一心で、命懸けの闘いを挑んでくるのだ。

 

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