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歴史・時代

東京探偵小町 第三十話「庭園水晶」 <2>

   

「逸見くんとて、何も君らからお時ちゃんを取り上げようとしとるわけじゃあない。お時ちゃんが落ち着くまでの、ほんのしばらくのことだ。こんな難しい状況で医院に空きもないとあれば、わしは、逸見くんの好意に甘えさせてもらうのが良かろうと思う」

小説版『東京探偵小町
第九部 ―錯綜編―

Illustration:Dite

 

「大将! おい、大将ッ」
 時枝の格好の「異常さ」は、遠目にもはっきりとわかっていた。履き物をそのままにして行ったのだから、はだしなのは理解できるが、袴も半幅帯も身に着けていないのである。それどころか、時枝の気に入りの夏銘仙は衿も裾も大きく乱れ、口もとにはうっすらと血までついていた。
「お嬢さん!」
 時枝を抱き起した和豪が「クソッ!」と怒鳴る横で、追いついた倫太郎がヒュッと息を飲む。
 どう見ても、誰かから暴行を受けたのだとしか思えない。
 恐らく時枝は必死の思いで暴漢から逃げ出し、夜道を駆け通してここまで戻って来たのだろう。そんななかで見えた二青年の姿に安堵して緊張の糸が切れ、倒れたのだとしか思えなかった。
「お嬢さん」
 喉が急激に乾いて引きつり、うまく声が出ないのを感じながら、倫太郎が地面に膝をつく。だが、かたわらに立つ逸見がそれよりも早く自分の上着を脱いで時枝に着せ掛け、和豪の腕から奪うようにして抱き上げた。
「内山くん、俥か自動車の手配を」
「おい、大将をどこへ連れてくッてンだよ」
「わかりきったことを聞く。帝大附属医院だ」
 時枝を軽々と抱き上げた長身の医学者が、木刀を力任せに握り締める和豪に鋭い視線を放つ。そして和豪の返事を待つこともなく、来た道を早足で戻り始めた。
「内山くん、何をしている。緊急事態だ、急ぎたまえ」
「は、はい!」
 木刀を握り締める手にさらなる力を込める、そんな和豪を気に掛けながらも、倫太郎は角灯を拾い上げて逸見の後を追った。和豪は二人の影が遠ざかってもその場を動かず、月明りが生み出す自分の影を見つめていた。
「畜生…………畜生、畜生ッ」
 自分の不甲斐なさに歯噛みし、地面に拳をぶつける。
 拳がすりむけて血がにじんでもなお、和豪は自分を責め続けた。だが、こうしていても何も始まらないのだと、和豪はひとり、月の大きな夜道を歩きはじめた。

 東京帝国大学医学部。
 時枝がその附属病院に入院したのは、深夜のことだった。
 生憎と満床だったため、診察室の簡易寝台があてがわれ、時枝はそこで逸見の診察を受けた。附属医院には女医もいるのだが、その晩は宿直当番ではなく、下宿先から呼び出すにはあまりに遅い時間だったのである。逸見の専門は解剖学だが、陸軍医時代は診療科を問わずに診ていたこともあり、みずから時枝の主治医を買って出たのだった。
「お嬢さんを逸見教授のお宅に……ですか」
「君にも、異存はあるまい」
「異存、は……ありません。ありませんが……………………」
 院長室に隣接する応接室に明かりが灯されたのは、つい先ほどのことである。白衣をまとった逸見の口から出た予想外の言葉に、倫太郎が歯切れ悪く、伏し目がちに応える。その隣で道源寺は黙って煙草を取り出し、同席することになった柏田は心配そうに倫太郎の横顔を見守っていた。
 四半時ほどの診察のあと、時枝は看護婦によって体の清拭を受け、清潔な病衣に着替えさせられた。時枝がここの病衣に袖を通すのは、これで三度目である。
 時枝に非があるわけではないが、いずれも外傷かそれに類するもので、記録簿を見れば昨冬から毎季ということになる。時枝の第二の後見人であり、医学者でもある逸見が神経質を装うのも当然だろう。現に時枝は診察中も清拭後も目覚めることはなく、今も第三診察室の簡易寝台に傷ついた体を横たえ、昏々と眠り続けていた。

 

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