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歴史・時代

東京探偵小町 第三十二話「恋ひとつ」 <1>

   

(永原さん……わたくしのさんざしさん。もし、あなたがわたくしを必要として下さるなら、わたくし、きっとあなたの良き「お姉さま」になりましてよ)

小説版『東京探偵小町
第十部 ―奪還編―

Illustration:Dite

 

 聖園女学院の最上級生にして五年級の学年総代も務めている大迫八千代が、初めて永原時枝とすれ違ったのは――久しぶりに気持ちの良い青空が広がった、六月早々のある昼下がりのことだった。
 少年のようにも見える、思い切った断髪。
 シスターが目を見張るほど裾みじかに穿いた、鉄紺の袴。
 登校用にしては少々派手な、けれども良く似合う緋色の銘仙。
 袴の裾をひるがえして渡り廊下を横切っていく、快活な後ろ姿。
(まあ)
 時枝とすれ違い、その明るい笑顔を目にした瞬間、何かが八千代の心に触れた。その場に足を止めて振り返り、「あれが噂の」と思いながら時枝の姿を追う。若葉の香りを含むさわやかな風が吹き抜けて行ったようで、八千代は時枝を見つめずにはいられなかった。
「みどりさーん!」
 軽く声を張り上げて友の名を呼び、歩くのではもどかしいのか、ついには駆け出していく。そんな時枝を見つめる八千代の目に焼き付いたのは、緋色の銘仙をまとった時枝の背中と、白い小さな花を小房のようにつけた西洋さんざしの木だった。
 さんざしは、春の訪れを告げる希望の花である。
 キリスト教との関わりも深く、英語では咲き誇る季節そのままにメイ・フラワーと呼ばれている。その花言葉は、「ただひとつの恋」という浪漫に満ちたものだった。
(さんざしさん)
 白い花の向こうに消えていく、さんざしの実にも似た緋の背中。
 女学院中の耳目を集める上海帰りの転入生に、八千代は思わず、「さんざしさん」と呼び掛けていた。
「いやだわ、はしたない」
 声に出してつぶやくや、八千代はかっと顔を赤らめ、くちびるを引き結んだ。
(はしたないわ。さんざしさん、だなんて…………)
 慌てて否定するものの、時枝をこんなふうに、花に例えて呼んでいる者はいない。時枝につけられたふたつ名は、新聞にも仰々しく書かれた「花の帝都の探偵小町」であり、それが女学院の生徒たちにもすっかり定着していた。
「さんざしさん…………」
 時枝をこんな愛称で呼ぶのは、帝都広しと言えども、きっと自分しかいない。そう思うと、時枝につけた、自分だけの秘密の愛称が愛おしい。花言葉を思うといっそうの愛着が募り、気づけば八千代は、再びその響きをくちびるにのせていた。
 模範生としてシスターの覚えも良い八千代にも、それを表に出さないだけで、少女の心はある。級友たちから真面目一辺倒だと思われている子の胸にも、さんざしの花言葉がすぐに出てくるような、いじらしい乙女心があったのである。
 中庭の花壇を目指し、瞬く間に小さくなっていく時枝の背中を見送りながら、八千代はこのひと月ばかりのことを思い返していた。ほんの今朝がたまで、八千代は級友たちが時枝の噂をささやき合うのを、眉をひそめて聞いていたのである。
「ねえ、お聞きになった? 探偵小町が、またシスターに」
「ええ、聞いたわ。二年級の洗濯物事件」
「あら、なあに? 何のこと?」
「それがね、昨日、二年級の東組で、家事科のお洗濯実習があったのだけれど」
 生徒の行状に厳しい聖園女学院でも、最上級生ともなれば言動に遠慮や慎みがなくなってくる。級友たちは毎日のように上海帰りの転入生を話題にのせ、静かに課題に取り組むべき自習の時間にも、まだひそひそ話を続けていた。
「確かに晴れてはいたけれど、あの風でしょう。ついに飛ばされた洗濯物が、校庭の桜に引っ掛かって」
「探偵小町が、木登りの腕を御披露したんですって」
 時枝の噂話は、まだ止みそうにない。
 たまりかねた八千代は、総代として級友たちをたしなめた。

 

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