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歴史・時代

東京探偵小町 第三十二話「恋ひとつ」 <3>

   

(嫌な子だわ、わたくし)
 時枝への想いは、こんなものではなかった。
 こんな、悪意にも似た気持ちではなかったはずなのに。

小説版『東京探偵小町
第十部 ―奪還編―

Illustration:Dite

 

 時枝とウィンナ・ワルツを復習した放課後は、八千代にとって、まさに夢のようなひとときだった。はずむ胸を押さえて時枝に礼を述べ、出席番号四番の鯉沼と入れ替わるや、八千代はその場にくずおれてしまいたいような気分になった。
(ただひとつの恋…………)
 脳裏に、さんざしの花言葉が蘇る。
 八千代は今こそ、はっきりと自覚していた。
 中庭へ駆けて行く時枝とすれ違い、希望を意味する花の名で呼び掛けた瞬間から、自分は時枝に恋をしていたのだ。レコードが同じ曲を奏で、今度は鯉沼と踊りはじめた時枝を目で追いながら、八千代はついに自分の想いを認めた。誰よりも強く慕っているからこそ、時枝をいまだに思いきれないのだ――と。
(とにかく、お礼を。ひとことだけでも、さっきのお礼を)
 一度ずつのおさらいが終わるまで、八千代はじりじりした気持ちで待った。ついに終礼となり、級友たちが口々に礼を言いながら時枝を囲むなか、八千代も急いでその輪に入ろうとしたが、御祇島に呼び止められて足を止めた。
「大迫さん。総代の大迫さん」
「は――はい」
「面倒を掛けますが、事務室に五年級の補習が終わったことと、体操場の施錠をお願いしてきて下さい。予定よりも長引いてしまったので、校務のかたが心配しているでしょうから」
「わかりました。すぐに伝えて参ります」
 五年級は一学級しかないため、学年総代の八千代は級長を兼務している。教師から雑務を頼まれれば、級長の責任として引き受けるしかない。八千代は後ろ髪を引かれる思いで、体操場の出入り口へ向かった。
「さあ、皆さん、おしゃべりはそこまで。予定より長引いてしまいました。施錠をしますから、すぐに帰り支度をして、すみやかに下校なさい」
「はい、先生」
 下校を促す御祇島の声と、素直に応じる生徒たちの声が八千代の耳に届く。五年級になった今も「御祇島シック」を引きずる生徒は多く、御祇島との別れが辛くて五年級に進級した者も少なくない。敬愛する御祇島の言い付けに背けるはずもなく、時枝を囲んでいた輪は瞬く間にゆるんだ。
 だが、だからと言って渡り廊下に立ち尽くしたまま、時枝が出て来るのを待っているわけにもいかなかった。八千代は事務室へ急ぎ、五年級の補習が終わったことを小使いに告げたが、女学院内のさまざまな雑務を担当する小使いは、どうしたわけか今日はひとりしかおらず、逆に八千代に施錠を頼んできた。
「鍵束は、済んだらこの棚に戻しておいてくれませんかね。ここが校舎の鍵入れになっとりますんで」
 初老の小使いは事務室の奥に据え付けられた棚を開けると、なかから大小の鍵がついた束を取り出した。四つある鍵束にはそれぞれに符号が振られ、やがて体操場の札がついた鍵束が八千代の手に預けられた。
「わしはこれから、切れた電球の買い替えに行かねばなりませんで。門灯だけは、終課が済むまで絶やさないことになっとりますでなぁ……店が閉まる前に行きませんと」
「わかりました。わたくしが責任を持って、きちんと戸締りをしておきます」
「お頼みしましたよ、総代さん」
 うなずいて、八千代は体操場へ取って返した。
 体操場にはすでに級友たちの姿も時枝の姿もなく、御祇島でさえ引き上げている。こんなことをしているうちに、時枝が下校してしまうのではないかと気持ちは焦るが、雑務を片付けるのも総代の役目のひとつである。八千代は体操場の施錠を確認して回ると、最後に重い扉を閉め、錠を下ろした。
 そうして鍵束を事務室へ戻し、五年級の教室へ急いだが、級友はひとり残らず下校していた。荷物をまとめて昇降口へ急ぎ、時枝の姿を探すものの、やはり誰の姿もなかった。

 

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