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歴史・時代

東京探偵小町 第三十三話「暗い部屋」 <1>

   

「泣くことなど何もない。何を嘆く必要がある」
「逸見、先生」
「君はわたしの患者だ。君に関する一切の責任は、わたしが持つ。君は余計なことなど考えず、わたしのもとにいればいい」

小説版『東京探偵小町
第十部 ―奪還編―

Illustration:Dite

 

(ここ……どこ…………?)
 一面に墨を流したような暗闇のなか、時枝は深い水底から浮かび上がるようにして意識を取り戻した。気付けば全身が燃えるように熱く、息苦しさまで感じる。まだ弟も生まれていなかった幼い頃、悪い風邪をこじらせてひどい熱を出したことをぼんやりと思い出しながら、時枝は闇のなかで父の姿を探した。
(父さま…………)
 まだ日本で暮らしていた当時、依頼に忙殺される朱門は家を留守にすることも多かったが、時枝は不思議と寂しさを感じることはなかった。舞台人に戻った上海での日々とは違い、あの頃は、美しく優しい母がいつもそばにいてくれたからである。仕事に追われる父も、たとえば時枝が熱を出して寝込んだときは、どこへ出掛けていても必ず帰宅し、様子を見てくれた。
 日本と上海に別れて暮らすようになってからは、家族全員が揃うことなど、年に数回しかなかった永原家である。上海では弟妹の父代わりを務めていた時枝にとって、朱門との思い出のほとんどは、日本で培われたものだった。
(父さま……どこ…………?)
 記憶も時間も高熱のせいで曖昧になっていくなか、時枝は無意識のうちに胸元を探り――はっと目を見開いた。
 肌身離さず身に着けていた、父の形見の十字架がない。
 何よりも大事にしていたはずなのに、いつもの場所にない。
 その「理由」に思い至り、時枝は身を震わせた。あの十字架は、もはや自分のものではない。父の形見を持つ資格も、倫太郎たちと共にいる資格もないと、昨夜、あの十字架を置いてみずから九段坂探偵事務所を飛び出したのだ。
(それから、あたし……どこへ…………?)
 手から滑り落ちた形見の十字架をそのままに、履き物も履かずに事務所を飛び出したことまでは覚えている。不思議な水鏡に映る、父の面影にもう一度だけ会いたくて、浅草にある占い師の館を目指したのだ。
 だが、そこからの記憶がまるでない。
 どこかで誰かに会い、優しい言葉で慰められたような気がするのだが、うまく思い出せない。もやに包まれた記憶をたどろうとして熱に阻まれ、時枝は再度、あたりの様子をうかがった。
(ここ、どこなの…………?)
 何も見えないのはそれだけで恐ろしいが、少なくとも自分を痛めつけようとする者の気配はなく、暗闇のなかは静寂に満ちている。もしや、またどこかで倒れ、帝大附属医院に運び込まれたのだろうかと思ったが、どうやらそうではないようだった。
(熱い……誰か……………………)
 体を起こそうとするものの、全身が泥のように重く、指先すら満足に動かせない。募る心細さに声を出して誰かを呼ぼうとしても、高熱の支配下にある体が眠りを欲しているのか、声を出すより先に意識がかすんでいく。それを必死に繋ぎ止め、時枝は両の手のひらに伝わってくる感触に意識を集中した。
 柔らかい布の感触。
 布団に寝かされている。
 その事実に、とりあえずは安堵する。
 だが、どこまでも続く闇が恐ろしいことに変わりはない。
 時枝は兄とも頼む二青年の名を呼ぼうとしたものの、九段坂探偵事務所の廊下で聞いた話を思い出し、力なく口を閉ざした。
 亡き父の娘ではない、どこの誰かもわからない、哀れな捨て子。
 朱門の実子ではない自分には、もう彼らを頼る権利などない。
 助けを求める資格などないのだと、時枝は声を押し殺した。

 

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