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SF・ファンタジー・ホラー

幻妖奇譚<3> 御馬坂

   

黄昏時は不安になるものです。だからといって、妖異な声に耳を貸してはいけません。

 

 その坂は、音羽から小日向の高台へ続く道になっている。
 家々の間から突然に坂が始まるので、うっかりすると、坂の存在すら気づかずに通り過ぎてしまう。
 道幅は、どうやら肩をぶつけずにすれ違える程度である。
 坂の左側には苔生した古い石垣がそびえており、右側には人家の塀が続く。
 戦災をくぐり抜けた古い家が多く、近年建てられた家々も、坂の雰囲気に溶け込んで、風情を醸し出している。
 このように、両側から挟まれた格好なので、昼でも薄暗い印象がある。
 坂を登るにつれて道はゆるやかに曲がり、登り切ったところで急に明るくなる。
 振り返ると、ちょうど東京の町並みを見下ろして、視界が開けているのだ。
 角度の関係で、東京タワーも新宿の高層ビル群も見えず、同じ高さに建物が広がり、その上に大きな空が架かっている。

 めずらしく仕事が早く片付き、ふらりと遠回りをして、初めてこの坂を登ったときのことは忘れない。
 よく人が言う江戸情緒とか、明治時代の名残とはこういう場所なのだろう。
 坂の上から見た東京は薄暮の霞につつまれ、空は夕焼けに染まっていた。
 文学には縁の無い人間がこう言うのはなにやら気恥ずかしいが、その夕暮れの光景には、青春時代のかそけき感傷を呼び覚ますものがあった。
 初めての土地の初めての景色なのだが、なぜか、若い頃に見た記憶があるような気にさせられたものであった。

 私は九州で生まれ育ち、名古屋から東へは行ったことがなかった。
 就職先も地元。
 その会社が東京に事務所を持ち、私はそこに転勤になった。
 初めての上京である。
 会社と下宿を行き来するには、広い自動車通りの方が近く、この坂は知らなかった。
 あの日、なぜ遠回りしてこの坂を通ったか、理由はない。
 俗に言う出会い、虫の知らせ、というものなのだろう。
 もちろん、その後も、この坂を通る必要はない。
 でもなぜか、この坂に惹かれる。
 ほんのたまに早番のときだけ、わざわざ回り道して、この坂を登って帰ることにしていた。
 坂を通るたびに、なにか非常に古い記憶が呼び戻されるような気がした。

 

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