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歴史・時代

東京探偵小町 第三十五話「君の枕辺」 <4>

   

「時枝嬢に、飢えの苦しみを味わわせてはならない。あの苦しみを知ったら、時枝嬢は間違いなく精神を蝕まれる」
「それを食い止めることができるのなら、僕は……僕らは喜んで、何度でもこうします。お願いします、逸見教授」

小説版『東京探偵小町
第十一部 ―紅蓮編―

Illustration:Dite

 

 時枝が面会を望んでいる。
 それを聞いたとき、倫太郎は安堵の笑みを浮かべずにはいられなかった。時枝の現状と朱門の死に関する、常識をはるかに凌駕する驚くべき事実の数々も、やっと時枝に会えるという喜びの前には、とても小さなことのように思えた。
「すみません……僕らが至らないせいで、お嬢さんには辛い思いをたくさんさせてしまいました。許して下さい」
 あまり体温を感じさせない時枝の手を、そっと握る。
 寝台に横たわる時枝の枕元に、青いトルコ桔梗が一輪だけ置いてある。しおれかけた弱々しい一輪ではあるものの、床に散らばっていた他の花々のように、醜く枯れ果ててはいない。その花びらには、まだ美しさが残っていた。
(お嬢さん…………)
 逸見に案内されて離れの扉の前に立ち、深呼吸をひとつして声をかけたとき――倫太郎は、すぐに時枝の返事が聞こえて来るものと思っていた。だが、予想に反していくら待っても応えはなく、不審に思った逸見が扉を開けるや、床に倒れ伏した時枝の姿が飛び込んできた。その顔から胸に降り掛かるようにして、干からびたトルコ桔梗の残骸が散らばっていたのだった。
「お嬢さん、もう少しの辛抱です。すぐに楽になりますから」
 恐れていた光景を目にした瞬間、倫太郎は呆然自失となった。
 悲劇の予兆とも思える時枝の姿に冷静な判断力を奪われ、その場に立ち尽くしてしまったのである。和豪が足首の痛みも忘れて駆け寄り、時枝を抱きかかえて寝台に運ぶのを、倫太郎は震えるような気持ちで見つめていたのだった。
「内山くん、心配しなくていい。まだ狂うほどの飢餓感には襲われていないはずだ。先ほどの検診で、時枝嬢はようやく空腹感が戻った気がすると言っていた。この花をこれだけ散らしたのなら、今は空腹感も紛れているだろう。現に、さっきより顔色が良い」
 時枝の状態を見ながら逸見がそう言ったとき、自分はなんと答えただろうと思いつつ、倫太郎は時枝の寝台に椅子を寄せて腰掛けた。和豪とリヒトを下がらせたいま、臨時の病室として使われているこの離れには、死んだように眠る時枝と倫太郎、そして逸見しかいなかった。
「内山くん、腕を」
「はい。お願いします」
「二合程度で止血する。多少の悪寒を覚えるかもしれない」
「構いません」
 夏上着を脱ぎ、シャツの左袖をひじまでまくり上げた倫太郎が、逸見にすべてをゆだねる。逸見は静かにうなずくと、止血の用意を整えた角盆から、冷たく光る解剖刀を取り上げた。
「これでも、多少の時間稼ぎにしかならないだろう。だが、今は何よりも時間稼ぎが必要だ。時枝嬢に、飢えの苦しみを味わわせてはならない。あの苦しみを知ったら最後、時枝嬢は間違いなく精神を蝕まれる。リヒトと同じような狂気を抱える可能性がある」
「それを食い止めることができるのなら、僕は……僕らは喜んで、何度でもこうします。お願いします、逸見教授」
 うなずいた逸見が、倫太郎の手首に解剖刀で小さな傷をつける。一瞬の痛みのあと、傷口から赤い血潮があふれ出した。それは瞬く間に真紅の奔流となって、時枝の白絣の夏ワンピースに版図を広げはじめた。
「お嬢さん」
 時枝のために、みずから血を捧げる。
 そんな倫太郎を励ますかのように、逸見が倫太郎の肩を支える。その手が倫太郎の肩を撫で上げ、うなじのあたりにふれるや、倫太郎の上体がぐらりと傾いた。
「お嬢……さん…………」
 流れ出す血液のせいか、体が急速に冷えていく。
 明らかな体調の変化に気付いたとき、倫太郎はすでに指先さえ動かせなくなっていた。眠れる時枝に折り重なるようにして上体を倒した倫太郎は、薄れゆく意識のなかで何度も和豪を呼んだ。

 

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