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ミステリー・サスペンス・ハードボイルド

自称天才数学者の推理記録 記録2 第1話

   

 記録2《チャンスが来たら、死ぬ気でつかめ》

 尾崎紅葉、泉鏡花へのオマージュです。

 

 江戸が明治になり、三十年ほど経過した、ちょうどその頃――。
 日清戦争が終結すると、次はロシアか、との空気が濃くなってきた。
 空気が濃くなり、大日本帝国は風雲急を告げてきた。
 敷島の大和の国は風雲急であったが、陸軍中将赤谷清五郎伯爵の別荘は雪であった。
 明治の元勲として有名な赤谷伯爵は、帝都の郊外に広大な別荘を持っていた。
 秩父山系を見はるかす山林を拓き、伯爵たるにふさわしい別荘を造ったのである。
 その日は、朝から雪であった――。
 夕方になると、勢いは減ったが、それでも細かい雪が降っている。
 空は曇り、視界は悪い。
 一面の白の世界の中で、屋敷はひっそりと静まりかえっていた。
 屋敷が静かなのは、雪のせいだけではない。

 赤谷伯爵の娘、鈴は、二階の部屋で沈んでいた。
 そこには、鈴の世話をする女中が二人、それに、森井静という名の年増の女がいた。
 二人の女中は、沈んだ空気を察して、部屋の隅で、邪魔にならないようにしている。
 鈴は、溜め息をついて、森井静に言った。
「ねぇ、おばさま。どうしたら……、いいのかしら……」
 森井静は、年相応の艶めかしさの中に、気っ風の強さを持っていた。
 一語の形容詞で表すと、辰巳芸者。
 実際、彼女は、深川に『小吉』という名の料亭を持っている。
 森井静が答えようとしたとき、ノックの音がした。
「誰?」
「黒岩です」
 黒岩盾男、赤谷伯爵の部下の、陸軍少佐である。
「お入り」
 黒岩少佐がドアを開けた。
 軍人らしく直立不動の姿勢で、言った。
「お嬢様、そろそろご用意をお願い致します」
「分かっているわ」
「黄坂様がいらっしゃるまで、あと一時間。この雪で、馬車が遅れるかもしれませんが。それでも、しっかりご用意をして……」
「分かっている、って言ったでしょう」
「お嬢様、自分は、閣下のご命令で、お嬢様を……」
「うるさいわねぇ。分かっているわよ」
「お嬢様」
 森井静が、割って入った。
「黒岩さん。大声を出さないで」
「しかし……」
「ここは女どうしで……。ねっ」
 森井静の声は穏やかだが、凄い迫力がある。
 黒岩少佐は、森井静が、晩年の勝海舟の世話をしていたことを知っていた。
 あの勝海舟を手玉に取った女傑である。
 黒岩少佐は、分かりました、と言うのが精一杯であった。
 黒岩少佐が去ると、鈴は、また溜め息をついた。
「黄坂花太郎の所へ嫁ぐなんて、いや……」
 森井静は、何も言わない。
 聞くだけであった。
「私の心は、色川常二郎様だけ……」

 

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