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前向きな店主の入院

   

街の酒場で、気さくな接客をすることで知られていた屋敷 勝一は、交通事故が原因で長期入院生活を送ることになった。

元来、楽天的で人に優しい性格でもある屋敷は、怒りや悲しみの念に支配されることなく、病院での生活を楽しんでいた。ただ一方で、体はどんどん回復しているというのに、何も仕事をしていないことに、手持ち無沙汰な不満を抱いてもいた。

そんなある日、屋敷は、病院の看護婦から、「CDに喋りを録音してくれないか」という仕事の依頼を受ける……

 

「申し訳、申し訳ありませんでしたっ! お、俺のせいで、こんなことにっ」
 ベッドで寝ている私の目の前で、中年の男性が声を張り上げた。
 額が腿についてしまうんじゃないかというぐらい、頭を深々と下げ、耳は真っ赤に染まっている。
「いいんですよ、北井さん。元々、飛び出したのは私です。暇だったもので、つい飲み過ぎてしまいました。おかげで、痛みもありませんでしたが」
 私は、目の前の男性、北井さんに向けて、柔らかい声を出した。もちろん、笑顔も忘れない。
 店で接客をしている時でも、常に表情に気を配っていた。
 そのあたりのいいクセが、入院中の今でもできているのは、私としては嬉しい。
「し、しかし、何とお詫びをしていいものか」
「ははは、大丈夫ですよ。治療費はまったくかかりませんし、慰謝料ならもうお支払い下さったというではないですか。こうやって、久しぶりにあなたの顔を見られたことが、何よりの薬というものです。そうですね、私が退院したら、また店にいらして下さいますか?」
 私がこう言うと、北井さんは、少しすすり泣き、何度も何度も謝罪と礼を口にしてから、病室を後にした。
 今回のやり取りで少しでも、彼の心の負担が軽くなってくれればいいと、包帯に覆われているものの、以前よりもずっと強くなった手足を見ながら、ぼんやりと思ったりもする。
 街のバーでオーナー兼店主をしている私が交通事故に遭ったのは、一月ほど前のことだった。
 店員やお客さんと話すのは実に楽しく、皆も楽しんでくれているのは感じるのだが、店の客入りはあまり多いとは言えない。
 暇があり、気分自体は悪くなく、酒とつまみが手元にある、となると、当然酒を体に入れることになるし、その酒量も結構多いものになる。
 その日も、常連のお客さんが持ってきてくれた全国各地のご当地ワインを一通り満喫し切り、かなり頭もぼんやりした状態で、店を出て家に向かったのだ。
 そして、家のすぐそばにある交差点で、私は車にはねられた。
 十分に足も動かないような状態で、真っ暗闇の中に、不用意に飛び出したところで、軽自動車とぶつかったのだ。
 私をはねてしまった不幸な運転手は、北井さんと言って、店の常連だった。
 彼は、パニック状態に陥りながらも、逃げたりすることはなく、適切な救命措置を行った上で、救急車を呼んでくれたらしい。
 そのおかげで、私は、入院中とは言うものの、至って元気かつ快適に、毎日を過ごせている。
 以上のようないきさつを経てのことなので、事故の被害者になったとは言え、北井さんに、怒りや恨みなどの感情は抱いていない。 悪くすると、当たり屋だと勘違いされて、ボコボコに叩きのめされていたかも知れない状況だということを考えると、運が良かったとさえ思える。
 それに、泥酔していたせいで、はねられた時も痛みはなかったし、大事故だったらしいが、後遺症はまったくない。
 むしろ、この病院にある最新鋭の治療器具の力で、苦痛も努力もなく、事故以前よりもはるかに強い筋力が得られつつあるというわけで、全体的に見れば、むしろラッキーと言えるぐらいだ。

 

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