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歴史・時代

東京探偵小町 第三十七話「仇討の夜」 <2>

   

「ハイ。タジさん、ドクターのおうちに、いやなカンジがします。タジさんの目には、ドクターのおうちがまっかにみえます」
「真っ赤って……警部、逸見邸に何か異変があるように見えますか?」
「異変?」

小説版『東京探偵小町
第十一部 ―紅蓮編―

Illustration:Dite

 

「脱走って、本当ですか、道源寺警部!!」
「これ、しっかり前を見んか、前を」
「あっ、すみません」
 おどろおどろしいほどの暗い夜道を、黒い箱型の自動車が進む。慌ててハンドルを握り直した柏田は、目の前に広がる暗闇を見つめた。ヘッドライトに照らされてもなお、重苦しいほどに暗く見えるのは、思いもしない恐ろしい話を聞かされたからだろうか。
「さっきの電話は、その話だったんですか」
「ああ。看守、いや、世話人と言うべきか。いつものように夕飯を運んでやったところに、いきなり襲いかかってきたらしい。将校も含めて、六人が死んだ。負傷者はその三倍に及ぶ」
「ということは、たったひとりで二十人…………!」
「そうだ。たったひとりで二十人だ」
 怖気に身を震わせながら、葵橋のたもとを横切る。
 柏田が危なげなく走らせるT型フォードは、運転が比較的容易なことから人気が高く、帝都を疾駆する車のほとんどがこの黒い箱車である。柏田が取得した運転免許も、俗に「フォード専用」と呼ばれる乙種免許だったが、それでもまだまだ取得者は少なく、車の運転は柏田の自慢の種になりつつあった。
「それで、新橋事件の犯人の行方は……つまり自分たちも、軍の捜査に加わるということですか。脱走となれば、追わないわけにはいかないでしょうし」
「いや、わしらの出る幕はない。軍のほうで、とっくに動いとるだろう。わしらがしゃしゃり出れば、軍と本庁との余計な衝突を招きかねん」
「でも、こうして直接の連絡があったということは、警部にそれとなく出動を要請しているのではないかと」
 遠慮がちに尋ねる柏田にすぐには応えず、道源寺は腕組みをしたまま、ぽつぽつとあかりの灯る家々を眺めた。
「軍の衛生部に、ちと顔馴染みがいてな。この春の異動で、今は軍研究所の守衛をやっとる。同僚とまわり順を決めて、やつの看守を兼ねた世話役みたいなこともしとったらしい。あっちも歳が歳だ、軍では楽な仕事だろうからな」
「そうだったんですか」
 うなずきながら、柏田は道源寺の左頬に残る古い傷跡を思った。運転席からは見えないが、道源寺の左眼の下から顎にかけて、先の大戦で負った大きな裂傷がある。つまりこの時代の戦友が今も軍に残り、道源寺に一報を入れてくれたのだった。
「これは軍外部では、わしらしか知らん話だ。逸見くんにも連絡が行っとるとは思うが、もしも知らなんだら、耳に入れてやる必要があるだろう。わしらにとって、新橋事件は特例だからな」
「もちろんです。亡き永原探偵の件ですから」
「それだ。わしはそこを危惧しとる」
 その意味がうまくつかめず、柏田が道源寺のほうにチラリと目をやる。すると道源寺が、煙草を吸いたそうな素振りを見せながら、腕を組み直した。
「新橋の犯人は、死ぬことばかり考えとる。軍に身柄を引き取られてからも、何度も自害を試みとるらしい。だが、死にきれん。どうやっても死にきれんらしい。無論、軍にとっては貴重な実験体だ。即座に手当てして、死なんようにしとるんだろうがな」
「…………なんだか、哀れですね」
 道源寺の気持ちに寄り添って、柏田がつぶやく。
 助手席に陣取る道源寺は、何も言わずに軽くうなずいた。
「永原探偵をはじめとする多くの人の命を奪い、自分の娘まで手に掛けた、大変な凶悪犯だとわかってはいるんですが……やはり、良心の呵責から死を望んでいるんでしょうか。それとも、今の境遇があまりに?」
「両方に決まっとる。かつて内山くんらがお時ちゃんにそう書いてやったように、せめて相打ちになれば良かったんだろうが」
「そうですね。簡単に良いとは言えませんが、現状よりはずっと」

 

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