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歴史・時代

東京探偵小町 第三十七話「仇討の夜」 <3>

   

「オレを殺して下さい、オレを殺して永原を助けて下さい!」
「馬鹿ッ、おめェも大将も助けてやるに決まってンだろうが!」
「違うんです、嘘なんです! 今までの話は、全部、晃彦兄さんを乗っ取った男の作り話なんです!!」

小説版『東京探偵小町
第十一部 ―紅蓮編―

Illustration:Dite

 

 時枝の病室にあてられている離れから、なかば強制的に追い出された和豪は、痛む右足首をさらに痛めつけるような勢いで逸見邸の渡り廊下を歩いていた。ドスドスと遠慮なく足音を立てて進み、途中でぴたりと足を止める。そして勝手に硝子戸を開けると、素足のまま広々とした中庭へ降りた。
 逸見邸の母屋と離れは、広い中庭を貫く屋根付きの渡り廊下で繋がれている。寺や神社で見かけるような長い回廊ではないものの、それでも座敷を三つ四つ抜けるくらいの距離はあるだろう。両側はしっかり磨かれた硝子戸で、どちらも中庭に出られるようにと濡れ縁がついている。夜目では良くわからないものの、伸びるに任せた中庭の木々は、なかば林のようになっていた。
(帝大の学者先生ってのは、だいぶ儲かるモンらしいな)
 背後から洋灯を手についてくるリヒトに断わりもせず、夏の乾いた土を踏みしめながら適当に歩き、長椅子のようなかたちの伏石に腰掛ける。ささやかな築山を背にした伏石は、ふたりでも十分に座れるほどの大きさがある。ここが松浦男爵邸だと言うならば驚きはしないものの、兄弟ふたりで暮らす個人宅であることを考えると、やはり目を見張るほどの豪壮さだった。
「よう、おめェもこっちに来て座ンな」
 和豪がやや声を張り上げて、リヒトを招く。
 このまま再び応接室へ連れて行かれては、自分がただの見舞い客のように思えて業腹なのだろう。リヒトはしばし迷っていたものの、スリッパのまま濡れ縁に踏み出した。和豪の足元を蛍のような光がすり抜けたような気がして、なかばそれを追い掛けるように、力の入らない足を叱って中庭に降り立った。
「どうしたィ。おめェ、震えてンじゃねェか」
 遠慮がちに腰掛けたリヒトの体が、小刻みに震えている。
 それに気付いた和豪が足元の洋灯を引っ手繰るようにしてリヒトの顔を照らし出すと、そこには時枝よりも血の気のない、紙よりも白い顔があった。
「おめェなァ、具合が悪ィなら最初ッからそう言いやがれ」
「だい、じょうぶ……です…………」
「どッこが大丈夫なんでェ。うちの大将よりひでェ顔してやがる」
 リヒトは慌てて顔を背けると、全身の震えをなんとか抑えようと自分の肩をきつく掴んだ。だが、主君たる逸見から体内に残る生命力を根こそぎ削ぎ取られたリヒトには、もはや人間の姿を保つことさえ難しくなっていた。こうして和豪と短い言葉を交わすだけでも、確実に消耗していくのがわかるのだ。
(飢えが来る)
 リヒトは歯を食いしばった。
 猛烈な、自分ではとても制御しきれない恐ろしい飢餓感が体の奥底からにじみ出してくるのがわかる。それと同時に、意識が急激に遠のいていくのも感じて、リヒトは戦慄した。自分はどうするべきなのか、どう動くのが最善なのかをしっかり考えなくてはならないのに、頭でものを考えるのがひどく億劫になっているのだ。
(ヒトではなくなる。オレはもう、この姿ではいられない)
 この感覚には、覚えがあった。
 主君に命じられて青慧中学校へ向かったあの晩――臓腑が溶けるかと思うほどの飢餓感に耐え切れなくなったリヒトは、ついに心身の安定を失った。少年の体はたちまち本来の独逸犬に戻り、やがてそのどちらでもない、異形の姿に変じたのである。
 人間を存分に喰らいたい。
 その血を浴びながら、生命の最後の一滴までを汲み尽くしたい。
 魔物としての感情に支配されていくなか、あの夜のリヒトは蒼馬の兄弟子でもある若い美術教師を、なんのためらいもなく殺めた。嫉妬に狂った美術教師が、天才と呼ばれるおとうと弟子を手にかけようとしたのを見た瞬間、リヒトのなかで何かが振り切れたのである。

 

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