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歴史・時代

東京探偵小町 第三十八話「繋ぐ心に」 <3>

   

「これだけは肝に銘じておくがいい。おまえを救えるのは、わたしだけだ。わたしの命に従う限り、飢えに苦しむことはない」
「探偵の娘さん、さあ、喰ってくれ。頼むから喰ってくれ」
「いや! 逸見先生、あたしこんなのはいや!!」

小説版『東京探偵小町
第十二部 ―探偵編―

Illustration:Dite

 

 時枝が泣いている。
 ただそれだけを明瞭に感じ取りながら、倫太郎はつかの間の眠りから意識を浮上させた。まぶたを開ける、ほんのそれだけのことに凄まじい労力がかかることに、驚愕せざるを得ない。時枝にほんの少しばかり血を分け与えたことが、体にこれほどの負担をかけたと言うのだろうか。
(お嬢さん…………)
 胸に突き刺さるような、悲痛な泣き声。
 もしや時枝は、自分の惨状を見て泣いているのだろうか。
 頭は冴えかかっているのに、まぶたの開かないのをもどかしく思いながら、倫太郎は微苦笑を浮かべた。
 時枝にしてみれば、眠りから覚めたら、自分の衣服が他人の血で赤く染まっていたのだ。しかも相手は気絶して倒れているとなれば、驚くなと言うほうが無理な話だろう。逸見から事情を説明されたとしても、簡単には飲み込めないに違いない。だからこそ、時枝の辛そうな泣き声ばかりが、こんなにも強くはっきりと聞こえるのではないだろうか。
「お、じょう……さん」
 やっとのことでまぶたを開け、時枝に呼びかけたところで、倫太郎は目の前に飛び込んできた景色に眉をひそめた。寝台の脚とおぼしきものが、眼前にある。床に倒れ込んでしまったのだと理解し、慌てて起き上がろうとするものの、まったくと言っていいほど手足に力が入らない。本能的に「何か起こったのだ」と悟り、倫太郎は歯を食いしばって腕に力を込めた。
(出血は……止まっていますね)
 吸血鬼に襲われながらも一命を取り留めた時枝は、同様の被害に遭ったリヒトがそうであるように、「人間と同じように生きるために他者の生命力を必要とする」のだという。
 そんな時枝の苦しみを少しでも和らげることができればと差し出した左手首に、手当ての形跡は見当たらない。包帯が巻かれるどころか、ゴム絆創膏も、薄いガーゼの一枚すら、あてられていないのである。ただ、薄闇に映える一本の金糸だけが、何かのまじないのように結ばれているだけだった。
(ゆっくり、気を落ち着けて。丹田に力を込めて)
 弟子入り当初に、朱門から教えられた事柄を胸の内でなぞる。
 倫太郎はどうにか動くようになってきた右手でタイを外すと、左手首の傷口に巻き付け、片端を口で押えて包帯代わりの応急処置を施した。
 そうして落ち着いてあたりの様子を探ってみると、時枝の気配も逸見の気配も感じられないばかりか、何かがくすぶるような異臭が漂ってくる。とっさに火事を連想した倫太郎は、一秒でも早く起き上がろうと歯を食いしばった。
「お嬢さん、和豪くん…………!」
 右腕にありったけの力を入れて上半身を起こし、みずからの血に濡れた寝台にすがって立ち上がる。床に倒れ込んだときにぶつけてしまったのか、少し曲がっている眼鏡を掛け直して、倫太郎はどうにか体勢を整えた。立ちくらみを気力で抑え、やがて一歩を踏み出した倫太郎は、半開きになった扉の先から聞こえる悲鳴に、ハッと息を飲んだ。
「お嬢さん!!」
 紛れもない、時枝の悲鳴である。
 恐怖に引きつる時枝の顔が思い浮かんだ時には、倫太郎はすでに駆け出していた。気持ちは急くのにふらつくばかりの足をもどかしく思いながら、壁伝いに離れの扉をくぐり抜ける。その瞬間、聞く者の胸を貫くような、恐ろしいほどの絶叫があたりに響き渡った。

 

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