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幻妖奇譚<10> 第四の問題(中)

   

これは数学の問題ではありません。小説です。どうか最後まで読んで下さい。幻妖な小説ではありますが。

 

 数学の内容こそ理解不能であったが、私は、清水先生の真摯なお人柄と数学教育に対する情熱、そして学生に対するときの暖かいユーモアには尊敬の念を禁じえなかった。
 これは、仲間の誰もが持つ感想であった。
 我々学生の間には、清水先生に関する一つの伝説が言い伝えられていた。

 まだ先生が四十代の壮年の頃。
 日夜『数学大全』を繙かれ、研鑽に励まれていたわけだが、本の中でどうしても一カ所、間違いとしか言い様のない所が出てきた。
 もちろん、印刷のミスとかいうものではない。
 もっと本質的な話である。
 うっかりすると見過ごしかねない箇所なのだが、一度疑問に思うとどうしても納得がいかない事なのであった。
 真面目な清水先生のことだから、最初は自分の理解が足りないのだと思い、何度も考え直してみたそうである。
 しかし、どの角度から見てもおかしい。
 間違いは間違いである。
 完璧な大著に一カ所だけ画竜点睛を欠く所がある。
 半年にわたる熟慮の末、清水先生は決心された。
「これはシュミット教授に知らせなければならない」
 最初、清水先生は手紙を書こうと思ったらしいが、それでは『数学大全』に欠点がある事の証拠が残ってしまう。
 直接会いに行き、誤りを知らせて、次の再版の折に直せば、『数学大全』の瑕疵は誰にも知られずに済むではないか。
 このように考えた清水先生は、海外出張の届けを出し、氷川丸に乗り込んだ。
 清水先生の心は複雑であった。
 初めての外遊である。
 心が躍ることではあった。
 だがしかし、心から尊敬するシュミット教授の間違いを正しに行くのである。
 そこは気が重くならざるをえない。
 フィリッピンからインドを経て、スエズ運河を経由してマルセイユに上陸する船旅である。
 それから陸路ドイツへ向かう予定であった。
 その氷川丸がマラッカ海峡を通過していたある夜のこと。
 南国の熱気は消えやらずに星がまたたいているが、海を渡る夜風が頬にやさしく、謹厳実直な清水先生もさすがに旅情を感じ、甲板を散歩していた。
 そして、タラップに足をかけたその瞬間、清水先生は大悟された。
「嗚呼、考えが浅かった」
 さよう、清水先生が間違いだとおもっていた事は、間違いでもなんでもなかったのだ。
 単に清水先生の理解が浅く、誤解していただけなのだ。
 『数学大全』はあくまでも完璧であったのである。
 清水先生はその足で船室に戻り、マルセイユへ到着するまで一歩も外へ出ずに『数学大全』を一から読み直した。
 マルセイユからヨーロッパを横断し、ベルリン大学でシュミット教授と対面したのだが、そのときまでに清水先生は『数学大全』を完全に暗記なさっていた。
 そして、その奥深さにただただ感心するばかりであった。
 清水先生は、はるばると訪ねてきた理由を話し、自分の非才を告げただけで帰国するつもりであった。
 さて、シュミット教授に会うと、彼が見たのは巨大な山岳そのものの碩学であった。
 だが、達人は達人を知る。
 シュミット教授は、一目清水先生を見るなり「おお、私の後を継ぐ者がついに表れた」と感嘆し、二人は抱き合って涙を流したとのことである。
 これが、清水先生に関する伝説である。

 

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