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歴史・時代

東京探偵小町 第三十九話「星ひかる」 <4>

   

「リヒト。聞こえるか、リヒト」
「に……さん…………」
「辛い思いをさせたな」

小説版『東京探偵小町
第十二部 ―探偵編―

Illustration:Dite

 

 これは一体、誰の声なのだろう。
 元陸軍医にして、今は帝大で教鞭をとる若き医学者「逸見晃彦」。その姿を持ち、その名を称する男が、時枝の肩に優しく手を置く。瞬く間に正気に戻り、涙ながらに牙を立てようとしていた和豪の腕から弾かれたように顔を上げた時枝は、目の前に立つ男の顔をおそるおそる見つめた。
「逸見……先生…………?」
「いい子だ。良く耐えてくれた」
 かすかにうなずく時枝の全身が、おこりのように震えている。
 小さい、けれど鋭い牙を持つ少女が、今この瞬間も心身をむしばむ凄まじい飢餓感と闘っていることを悟り、逸見晃彦を名乗る男はたまらず少女を抱き寄せた。
「安心したまえ、もう少しの辛抱だ」
 痛いほどの力で抱きしめられた時枝は、驚きに目を見開いたのもつかのま、突如として現れた「知っているのに知らない男」の肩におずおずと寄り掛かった。広く厚い肩に身を寄せるだけで、心が落ち着きを取り戻していくのがわかる。確かに伝わってくる温かさに、時枝は涙をこらえるようにまぶたを伏せた。
「君は強い。我慢できるな?」
「はい」
 不思議な懐かしさを覚えながら、時枝は再度、うなずいた。
 亡き父に似ているところなどひとつもないのに、どこか似ているような気がして喉の奥が熱い。こうして亡き父のことばかり、幼い日の光景ばかりを思い出してしまうのは、「終わり」が近いからなのだろうか。それでも構わないと切ない覚悟を決めながらも、終わりを迎えた魂が父のいる場所にたどり着けるとは思えず、時枝は黙って嗚咽を飲み込んだ。
「…………教えて」
 まどろみから目覚めるように男の肩口から離れ、時枝はかぼそい声で尋ねた。
「あなたは……誰なの?」
 枯れ果てた喉を酷使して、言葉を発する。
 ほんのひと声だけでも、喉が焼け付くように痛む。
 それでも時枝は、和豪への凶行を止めてくれた「目の前の誰か」の名を知りたいと願った。
「あなたは誰なの? 逸見先生なの? さっき、タジさんが言っていた……本当の、本物の」
「そうだ」
 晃彦は時枝をその場にしっかりと立たせると、琥珀色の輝きを取り戻した目元に残る、赤い涙の筋をぬぐった。晃彦の思いがけない優しさに、時枝が戸惑いがちの微笑を浮かべる。見つめ返す晃彦の頬にも穏やかな笑みが刻まれ、やがてその大きな手が時枝の髪をなでた。
「わたしの名は逸見晃彦。君たちがリヒトと呼んでいた赤毛の少年の兄であり、ワリーくんの知己でもある。本来ならば……あの日、はるかシベリアで生を終えていたはずの、一介の陸軍医だ」
 こうして会うのは初めてなのに、時枝に対する確かな愛しさと狂おしいほどの執着が胸の奥にある。この感情がどこから、何から生じたものなのか、晃彦だけにはわかっていた。今日までの三年間、深く封じ込められることによって「それ」と隣り合って生きてきた晃彦だけには、良くわかっていた。

 

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