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幻影草双紙52〜居酒屋の名前は『般若』〜

   

 店の名前は『般若』ですが、女将は、かなりの美形です。
 若い頃は、さぞかし、と思われます。

 

 その市は、東京から出る私鉄沿線にあった。
 昔は栄えていたのだが、今では、〈市〉よりも、〈町〉くらいの没落であった。
 ところが、どういうわけか、その市の駅にも、急行が停まるようになった。
 昔の繁栄を取り返す、チャンスだ。
 駅の再開発が計画され、実行された。
 駅の東側に、ショッピングモールが作られ、有名店の支店が開店した。
 人を集めるためのイベントも、いろいろと企画され、実行された。
 例えば、明日は、アイドルのハニー寧々子がやってくる。
 ショッピングモールの広場で、歌う予定であった。
 こうして駅の東側は現代的になったが、西側は、再開発に取り残されてしまった。
 西側中央通りで店を開いているのは、八百屋と雑貨屋だけである。
 あとは、軒並み店を閉じていた。
 五十嵐次郎は、その通りを、黙々と歩いていた。
 体格のよい男である。
 短く刈り込んだ髪の毛には、白いものが、少し、混じっていた。
 雑貨屋の先には、シャッターを下ろした店が並ぶ。
 そうした店の先は、商店だか個人の家だか、よく分からない荒れた家が続いていた。
 五十嵐次郎の風貌には、似合った道ではある。
 電信柱に、ハニー寧々子のポスターが貼られているのだが、それが却ってわびしさを増している。
 五十嵐次郎は、廃業したビジネスホテルの角を曲がった。
 その先に、一軒の居酒屋があった。
 居酒屋には、明かりがついていた。
 提灯には、『般若』と書いてある。

 五十嵐次郎は、縄のれんを分けて『般若』の入り口を開けた。
 女将が、笑顔で、言った。
「あら、まあ、おひさしぶり」
 五十嵐次郎は、一瞬とまどったが、黙って頷き、カウンターに座った。
「本当に、おひさしぶりね。次郎さん」
「う、うん。まあ……」
「ご心配なく。お好きなものは、忘れないわ……」
 五十嵐次郎は、店の中を見回した。
 他の客は、カウンターの隅に、若い男が一人いるだけであった。
 女将は、コップ酒を出した。
「はい。島根銘酒『峰吉』」
「ありがとう」
 女将は、山菜の煮つけのお通しを置き、言った。
「ほんとうに、おひさしぶり」
「あんまり、ひさしぶり、ひさしぶりと、言うなよ。そんなに来なかったかなぁ」
「ええ、5年よ。しっかり覚えている」
「そうか……、そんなになるか……」
「でも、こういうところへ来ても、いいの?」
「え?」
「仮釈放でも、居酒屋へ来ていいの?」
「仮釈放でも、酒くらい飲めるさ。きちんと、その筋へ報告していれば、問題はない」
 五十嵐次郎は、答えながら、若い男を、ちらりと見た。
 男も、五十嵐次郎の方を、横眼で見たのだ。
 それはそうであろう。
 〈仮釈放〉とは、普段の会話では、出てこない言葉である。

 

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