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ノンジャンル

一面いかがですか?

   

ベテランボクサーの安田 文敏は、窮地に追いやられていた。間近に年齢制限が迫り、引退を余儀なくされようとしていたのだ。

このままでは時間が足らず、ずっと目標としてきた世界チャンピオンには至れない。だが、無理な話を通すだけの力はジムにはなく、安田本人にも、特別に大試合を組んでもらえるような話題性はない。まったく展望の開けない日々を送っていたのである。

そんなある日、安田は、ロードワークの途中で見知らぬ男と知り合う。

男は安田に、新聞の「一面」を提供できると持ちかけてきた。安田は、怪しい話ではあるとは知りつつも、知名度がどうしても欲しい状況のため断ることもできず、話を聞くことにしたのだが……

 

「コーチ、どうして俺にチャンスをくれないんですか。手頃な相手を二、三人も倒せば世界が見える位置にいるんですよ」
 安田 文敏は、ボクシングジムの一角で声を張り上げた。
 普段はプロ志望の練習生や一般会員で賑わっている室内も、深夜零時を回った今となっては、嘘のように静まり返っている。
 駅から歩いて十五分以上もかかるこのジムで、深夜まで練習を続ける人間は滅多にいない。
 疲れた体では速く歩くこともできず、終電に間に合わない可能性があるからだ。
「無茶を言うなよ、文敏」
 会長は、笑みを作ろうとして渋い表情になった。
 安田の言っていることは重々理解している。だが、同調することはできない。
「お前の言う手頃な相手を何人も見繕ってくるのが、どれだけ大変なのか、分からんわけじゃあるまい。ただ倒れてくれりゃあいいってわけじゃねえんだ。時間のこともある。仮に全部無傷で乗り切れたとしても、三戦こなすまでには一年近くかかる。そうなったらお前は三十七だ。世界チャンピオンとやるにもベストの状態じゃないだろうし、大体から年齢制限にかかっちまうだろう。そうなりゃ引退だよ」
「じゃあ、このまま諦めろってんですか」
 会長の言葉に、安田は叫びだしそうになった。
 言われていることは間違いなく正論だが、安田の側にも相応の言い分はある。
 十七歳で高校を辞めてジムに入り、以来二十年。
 地元の友人が進学や就職、結婚といった人生の道を着々と進んでいる中で、安田はボクシングに全てを賭けてきた。
 学歴はおろか運転免許すら持たず、練習を優先するために正社員の話を断ってバイトを転々とし、彼女さえも作らずにここまで来ている。
 酒やタバコ、女遊びの類はもちろん、視力に悪影響を及ぼすのを避けるため、TVやインターネットといった趣味も控えてきた。
 そんな犠牲を払ってまで、長年必死に取り組んで得られたのが、プロのリングでの三十に及ぶ勝ち星と、東洋太平洋スーパーウェルター級三位という肩書きだった。
 しかし、人生の収支のバランスを合わせるには、これではとても足りない。
 防衛できなくてもいいから、一度だけでもいいから、世界のベルトを巻きたい。
「ウチのトレーナーをやってくれないか。健一の奴が独立したいって言ってて、人手不足になりそうなんだよ。まあ、行く行くはジムを継いで……」
 何十人というプロボクサーの引退を見てきた会長にとって、お茶を濁したようなことが言えるはずがないのは分かり切っていた。
 だが、安田としては、頭では理解できても、感情的にはまったく納得できない。胸の中が、粘りつくような嫌な熱を帯びて、その勢いがそのまま言葉になって出てしまう。
「見合いません。少なくとも、今の段階では」
「……うーむ……」
 あまりにもズバっと言い過ぎたかとも思ったが、会長は声を荒げるでもなく唸り、タバコをふかした。
 健康第一というよりは、匂いを嗅いでタバコを恋しがる人間が出てくるという理由で、設立当初からジム内は絶対禁煙なのだが、喫煙でもしないとやっていられない部分があるのだろう。

 

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