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ノンジャンル

迷い人に孫の手を<1>

   

 平坦な日常は、ほんの一筋、道を外れた所に変化点がある。
 人の縁が魅せる、彼の物語。彼が歩き出す、出会いの物語をここに贈ります。
 
 迷い人に孫の手を、第一話。

 どうぞご賞味下さいませ。

○○○

「彼女待ちか、兄ちゃん」
「……え?」

 気配と共に野太い声がした。顔だけをその先に向けると、そこには同じソファーに座った老人が少しだけこちらに寄って、僕を見ていた。「男ってやつぁ女を振り回してなんぼだろう」と言った。

○○○

 

 
「僕は何をしてるんだろう」

 誰に告げるでもない独り言が、泡のように消えていく。日常の平坦さと酷似した呟きが僕の唇から零れて、朽ち果てそうな勢いだ。革靴がやたらと重く、足も上がらない。

 時間は先ほど朝の九時半を過ぎた。僕は自分の首を絞めるように巻いたネクタイを緩めて溜息を洩らした。濃紺と黒縞のネクタイは安物で、一本二百円もしていない。背の高い天井を見上げて背中を伸ばしながら、僕は時間を持て余していた。
 正確には、大型ショッピングモールの二階の端にあるソファーの背に、頭を預けてだらけていた。

「暇だなあ」

 呟く程に暇だった。仕事をさぼっているわけではない。そこまで僕は不真面目ではない。分類すれば『生』が付く程に真面目の部類だ。

 土曜日の休日の朝、上司に会社へ呼び出されたのだ。布団の中で電話を取り、とにかく出勤しろとの命令に、ただ事ではないぞと冷や汗を掻きながら来てみれば、資料の訂正をさせられた。
 たった数行の訂正だった。それだけだった。

 資料とはいえ内部コンペの企画書で、一応は今週中に作成するようにと言われていたので、昨日の朝にはやり遂げた。二週間近くの時間を掛けて作り込んだ企画書だ。完成したはずの資料を最終確認として提出したのが昨日で、言っていなかったがここが違う、という訂正を今日貰い、訂正したのだ。

 自分で直せばいいのにと思ったが、企画書の原本は僕のPCにしかなかったから、という名目で呼ばれた。「メールで送らせて頂いたと思ったんですが」と返したら、驚くでもなく「そうか、気付かなかったな。言ってくれればよかったのに」と言われて、すみませんと謝った。何も言わずに呼び出したのはあなたですよと思ったのは、謝った後だ。

 そもそも昨日、確認して問題ないと言ったのは誰でしたかと思ったけれど、上司の命令に背く程に、僕の自我と意志は強くもない。
 素直に従い、訂正して、内容をもう一度口頭で確認した。途中質問もされ、今更のような疑問に回答をして、わかったと納得してもらった。そうして企画書を再提出したのが一時間前だ。
 僕はそれで用済みのはずだった。彼は少し席を外すと言い、企画書を片手に僕を置いてその場を去った。僕はしばらく、上司の席の横で立たされ続けた。

 暇潰しのように彼のディスプレイを眺めさせられた。ディスプレイには家族の画像が在り、どうでもいい話だが本人の姿は映っていなかった。運動会の画像だろうか。子供達は楽しげに、カメラに手を振っている。別の画像に変わり、ケーキを食べている姿、やはりこれも家族が居て、本人が居ない。楽しげな様子が、余計にどうでもいい気分になる。
 
 上司が戻ってくるまで五分は掛かった。

 たかが数行の訂正の為に、三十分近く電車に揺られての出勤だ。朝の七時に起こされた事すらどうでも良く、戻ってきた上司の目が「なんでここに居る?」と物語っていたので、席に戻ってよかったのかと溜息。自席に戻り、さっさと帰宅しようと思った矢先に、『もう少し確認をするから近くで待っていて欲しい』と言われて、言葉に詰まった。

 頭が言葉を受け付けなかった。それが事実だ。上司はそれ以上何も言わなくなり、僕は黙って席に着いた。そしてようやく言葉を頭が理解した。つまり帰るなという事だ、そう思って、PCの電源を付けた。仕方ないので翌週からの仕事をしようと、予定を確認しようとしたら、

『今日はこの訂正以外に仕事なんてないよな?』

 と一喝された。上司のその一言の意味を理解するのに、やはり十五秒程かかった。つまるところ休日出勤による時間計上はよほどの事がない限り付けさせない、という事だろうか。結果として『今日は休みだろう?』と丁寧に付け足してくれた。

 正直、苛めに近い。

 

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