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歴史・時代

薔薇と毒薬 18

   

 マリエットは立ち上がると、鏡の前に座った。泣きはらしたひどい顔。化粧も落ちてしまっている。念入りに白粉をはたき、紅をさした。
 舞台に上ればきっと、すぐに捕らえられることになるだろうが、それならせめて、最後くらい美しくしていようと思った。
 捕らえられる前に、少しでも、歌えたらいいと思った。
 自分が人前で歌える最後の歌に、想いのすべてを籠めようと。

 

 広間の隅を、ノイッシュは窓際に向かい歩いてゆく。マリエットはそのあとについていった。
 その間、ノイッシュは一度も振り返らなかった。マリエットが逃げ出してもおかしくはないのに、それでも彼はマリエットがいることを確かめない。
 人気のないバルコニーに出ると、漸くノイッシュが足を止めて振り返った。それからふたりは、しばらくの間無言で見つめあっていた。何も言わないノイッシュの表情は、口で問うより余程多くのことをマリエットに語りかけている。
 そのときマリエットの心に訪れていたのは、不思議な静けさだった。
 彼を傷つけたくない、悲しませたくないと思っていたのに、すべてが知られてしまった今、マリエットがノイッシュを裏切っていたと知り悲しんでいるその顔を、うれしいと感じてしまう。
 そんな自分が情けなくて、愛しかった。
 恋などしないで終わるのだと思っていた、けれどマリエットは恋を知った。恋愛とは、もっとかわいらしくていじらしく美しいものだと思っていたのに、本当はこんなにも勝手で醜いものだということも知った。けれどどんな感情よりも生々しく、心に突き刺さる。
 マリエットがじっとノイッシュを見あげていると、何度目かの逡巡のあと、漸くノイッシュが口を開いた。
「……あの時僕を襲ったのは、君だったのか?」
 グレイの言ったとおり、ファナがくれた砂糖菓子、あれが罠だったのだろうか。否定して欲しいとノイッシュの目が言っている。もう本当はとっくに、真実に辿り着いているくせに。

 

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