幻創文芸文庫 (β)

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ショート・ショート

最初で最後になりますように

   

「なぜ、生きることは、困難ばかりなのだろう」
 と呟く彼に、私は生きていること自体が償いなのだと囁く。
 彼は知らず知らずのうちに、彼にかせられた償いの最後を飾ろうとしていた。

 

 彼は、今、死のうとしている。
 空にはうら淋しい三日月が出、コオロギがもの悲しく鳴いている。
 彼はひとり、郊外にある公園の、銀杏の木の下にあるベンチに座ってぼんやりしていたが、やがてわきにある水筒を手に取り、中身をそのコップに注ぎだした。水筒の口から流れ出る水は鈍く輝きながら、コップを満たしていく。
 彼は水筒を置くと、くたびれたズボンのポケットからコバルトブルー色の小瓶を取り出して中の液体を2、3滴、コップに落とした。そうして小瓶をズボンのポケットにしまうと、両手でコップを包み頼りない三日月を見上げた。
 私はその姿を、彼の後ろに立って眺めている。
 闇のしんみりした匂いを纏う風が、彼の張りのないシャツの皺や、私のドレスにあしらわれたレースをそっとなぞり去っていく。
 彼は私に気づくことなく、なぜ自分が生まれ、死ななければならないのかを考えている。そして、生まれてから今日までのことを他人事のように思い返している。
 彼は彼の譲れない信念に基づいて人生を歩んできたはずだった。だのに、途中で狂わされてしまった。濡れ衣を着させられたのだ。当然、彼は裁判で争った。しかし、無罪を主張する彼の声は受け入れられず、有罪が確定した。彼の妻は夫を信じきるこができなくなり、幼い娘を連れて家を出ていった。
 彼は涙しながら服役し、今日の昼頃、刑期を終えて出所した。遠くにあった空の青さを身近に感じながら、駅へと続く坂道をゆっくりくだった。私は彼の後ろを歩いたが、やはり彼は気づかなかった。
 彼が自分の家に帰ってきたとき、陽は西へと傾きはじめていた。玄関の引き戸を開けると、ぎしぎし、がたがた、きぃっと耳障りな音がした。家の中は薄暗く冷たかった。湿気や埃の陰気な臭いがする。彼は一部屋一部屋、中に入って変わったところがないか確かめたあと、居間で茫然と立ちつくした。家も、その中にある何もかが、よそよそしく感じられた。彼は俯いて家を出た。
 彼は両親を亡くしていた。兄弟もいないため、彼が出所するのを待っている人も、帰ってきたときあたたかく出迎えてくれる人も持たなかった。
 彼は項垂れて、コスモスの咲く川べりの道を歩いた。のびやかに咲く白色や桃色の花を見ると、忌まわしい出来事の起こる前の幸福な日常がすぐそこにある気がした。
 彼はどこかで悠々と暮らしているだろう真犯人を呪った。しかし、憎んだところで別れた妻と子の明るい生活は戻ってこない。彼をとりまく世界の全ての人間が、彼を有罪だとして疑わず、今もそうだと決めつけている。もう誰も、彼の言葉に耳を貸さない。
 彼はバスを何本か乗り継いで、山奥にある先祖の墓に赴いた。クヌギの木の下に、いくつもの墓石と小さな地蔵が並んで立っている。彼は苔むした墓の中から、汚れたポーチを取り出した。中には白い布で包まれたコバルトブルー色の小瓶がある。その小瓶には、猛毒の液体が入っている。彼が保釈中、密かに親友の手を借りて入手したのだ。
 幼なじみでもある親友は、誰よりも彼の無実を信じ祈っていた。彼はそんな親友に、毒物が欲しいと頼みこんだ。親友は首を振り、涙で声をつまらせながら彼に生きる希望を持たせようと言葉を重ねたが、彼の「いつでも死ねると思えば、強く闘える」との決意に折れ、毒物を手配したのだった。彼は親友から毒の入った小瓶を受け取るとすぐ墓に隠した。手元に置けば誰かに気づかれる可能性がある。そしてなにより、彼自身が一時的な気の滅入りで飲んでしまう恐れがあった。
 彼はしずんだ面持ちで、じっと小瓶を見つめた。親友はそれを彼にわたすとき、沈痛な表情で涙ぐみながら、できることならわたしたくないと震える声で何度も言っていた。
 彼の唯一の理解者であり、絶対的な味方であった親友は、彼の裁判中に不慮の事故で死んでしまった。親友の両親はすでに別の町へと引っ越してしまっている。もし、親友が生きていたなら、彼をとりまく世界は違っていただろう。

 

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