幻創文芸文庫 (β)

小説好きの創作小説を無料配信*スマホ対応

ミステリー・サスペンス・ハードボイルド

8月のエンドロール 17

   

人殺しとなったマリは奪った車で逃げる。遭遇する事故。想起する記憶。古雅への際限ない奉仕に疲弊するマリ。かかってくる電話。マリを救わねばならないはずの父・勇次は濡れ衣を着せられ、死に至る途上にあった。誰もマリを救えないのか。マリに救いは訪れないのか――
『血に濡れた手』配信

 

血に濡れた手

 握ったハンドルは血と汗でじっとりと濡れていた。お腹がぎりぎり痛み、身を曲げる。
 至るところをぶつけたぽんこつ車を危なっかしく操るマリは、血走った目をカッと見開き、比野市内をあてどなく彷徨っていた。唇は青褪め、歯ががちがちと踊っている。血にまみれたレースのスリップとショーツは、冷房のせいもあってにかわのように固まって粘っこく、肌に痒みを与えた。
「死にたくない、死にたくない……」
 ぶつぶつそれだけを呟いている。レーンを跨いでぐらつきながら走る車にクラクションが鳴らされ、次々に追い抜いていく。そして、追い抜かした運転手は過ぎ去っていく車を睨みつけると運転手の血まみれの少女にぎょっとして口々に騒ぎ立てた。
 車は知らない街をよたよたと走って行く。
 浮ついた車が反対車線に身を乗り出す。対向車が迫る。避けようとハンドルを切る。だが血のせいで手が滑り、一瞬、反応が遅れた。踏まれるブレーキ。続いて起こる甲高い悲鳴。対向車がぐわんと膨らみ、避ける。盛大なスリップ音。マリの頭が揺れる。迫る電柱。ブレーキ。速度が落ちない。パニックになって引かれるサイドブレーキ。後輪がロック。回転がかかり、車は右に振り回された。そして電柱に右側から乗り上げるように突っ込んだ。
 エアバックと座席に挟まれたマリから新たな血が流れる。
 朦朧としながらドアを開けようとして、気を失った。
 唇がかすかにお父さん、と動いた。

 古雅の家にいた〝彼女〟は狂う寸前だった。
 それまで曲がりなりにも健康的だった娘の目はうつろで、毎日打たれるヒアルロン酸の注射で肌は若々しく保たれていたものの、鼻を近づけると腐ったような臭いがした。
 今日が何日か、この屋敷に来てからどのくらいの時間が流れたのか、彼女には一切分からない。
 屋敷では麻亜矢と呼ばれ、コタニ マリという少女はどこにもいなかった。
 名前さえ奪われた彼女は、暗示をかけるように自分のことを胸の裡でマリと呼び続けていたが、やがて〝麻亜矢〟が重くのしかかってきた。
 〝麻亜矢〟は過酷だった。
 お膳立てされた部屋以外、出歩くのは禁止された。〝衣装〟はスリップとショーツだけ。目隠しのためのカーテンが何重にも引かれ、陽には当たれない。空気も感じられず、釣り下げられたシャンデリアが煌々と灯る部屋に一日中ひとりきり。口に合わない懐石料理を運んでくる女中は、彼女が話しかけても一度も答えてくれなかった。
 古雅がやってくるのは不定期で、早朝でも深夜でも愛人で事足りなくなるとやってきた。彼女はやってきた古雅に、何時間も奉仕する。終わると身体のあちこちが痛んだり、血や黄色い膿が出たり、おかしくなる。だが古雅は、彼女を医者に診せたりしなかった。そして、いつの頃からか、常に異臭がつきまとうようになった。鼻を近づけると臭うのだ。肉が腐っていくときのあの独特の生臭さが。
 彼女はひとり、自分が腐り落ちて死ぬ恐怖に耐えなければならなかった。
 ついに、先日、行為の最中で突き刺すような痛みを覚え、古雅を突き飛ばした。悪気があったわけではない。痛みで腕が跳ね上がり、古雅の胸にぶつかっただけだ。敷かれた布団でのたうち回って嘔吐し、下腹部から膿が混じった血が太腿に滴った。
 自身の劣情を処理できなくなった古雅は、たいそう怒り、げえげえと身を折って吐く彼女を出来損ないと張り倒した。転がる彼女の喉が蠢き、またげぇっと吐いた。古雅は途端おろおろし出し、娘を叩いたと吐瀉物に埋もれた彼女を抱き上げ、むせび泣いた。
(誰か、誰か……)
 音のない言葉だけが、切れた唇から涎とともにこぼれ続けた。
 彼女はもう、理不尽でこんなにも酷い目に遭う自分が何者なのか分からなくなっていた。

 

-ミステリー・サスペンス・ハードボイルド


コメントを残す

おすすめ作品