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SF・ファンタジー・ホラー

– アイサイ – 第1章

   

 炬燵で目覚めた中年男性。
 美人で若い妻と可愛い息子。
 満ち足りた生活のはず──なのに、男は不安感にさいなまれていた。

 男の足りないもの。それは──記憶──だった。

 

「俺は……、俺は誰だっけ?」
 俺は炬燵の温もりの中、まどろみながらそう呟いた。
 ふと炬燵の上のテーブルを見ると、剥かれた皮の中央にまだ手つかずの蜜柑が半分残っていた。皮を剥かれたまま放置されていた為に、蜜柑は乾燥し、白いすじは固くごわごわとなっていた。こうなってしまっては、今から食べたとしても美味くはないだろう。
 蜜柑の皮を剥いたのは俺だ。半分食べ、半分残したのも俺だ。──そうだ。さっき蜜柑を食べてる途中で眠くなって、このまま炬燵に深く潜って寝入ってしまったんだ。
 ──熱い。身体が熱い。
 炬燵に入ったまま寝ていたのだ。そりゃ身体も熱くなろう。
 だが──俺が言いたいのはそういう事じゃ無かった。何か──何かとても怖い夢を見たんだ。とんでもなく怖い夢を──。それで俺は厭な気持ちのまま目覚めたんだ。
 炬燵に入っていたというのもあるだろうが、俺の身体は悪夢による脂汗でびっしょりとなっていた。汗で濡れて張り付いた肌着が気持ち悪い。
 そう。そうだ。俺は何か夢を観ていたんだ。それで飛び起きて──訳が解らなくなったんだ。
 俺は周りを見渡した。
 炬燵を中心として、狭いがきちっと片付けられている部屋だ。周りの棚の中も整然としている。居間の様だ。うん、解る。俺は此処に居たんだ。この部屋に在る炬燵に入って、蜜柑を食べて、うたた寝をしていたんだ。
 次だ。
 俺は──誰だ?
「あらあなた、起きたの?」
 若い女の声が背後から降って来た。
 驚いて振り返ると、其処には見知らぬ女が居た。
 長いさらさらの黒髪。切れ長の瞳と細い眉。整った鼻。薄く色付いた唇。大きく盛り上がったふくらみを包む白いセーターに、水色のスカートを穿いている。凄い美人だ。
 この女はいったい──?
 そう思っていると、脳理の片隅からまた別の記憶の断片が浮かんで来た。
 ──いや、知っている。コイツは俺の嫁だ。名前は──『杏子(きょうこ)』。杏子だ。そのはず──だ。
「なに驚いた顔をしているの? 変な人ね。うふふっ」
 杏子は俺が何かに怯えたような顔をしているのを見かけて、不思議そうに微笑んだ。笑顔がとても魅力的な美人だ。おまけにとびきり若い。
 ふと視線を下ろすと、スカートから伸びた杏子の白い脚が見えた。膝下、ふくらはぎ、踝と透き通るような肌をした綺麗な細い脚だ。
「……はぁ……!」
 その美脚を見て、俺の中の獣欲がズクンと疼いた。
 この美人が俺の嫁──。
 性的昂揚と、何やら言い知れぬ不安が綯い交ぜになった気持ちとなった。
「起きたのなら、こっちで面倒見ててくれます? 私、これからご飯を作らなくちゃいけませんから」
 言うと杏子は隣の部屋から子供を抱えて連れて来た。
 俺の傍に置かれた子はきょとんとした目で俺を見つめた。
 見知らぬ赤子。
 ──いや、知っている。コイツは俺の子だ。名前は──『弥一(やいち)』。1歳と数ヶ月になる男の子だ。そのはず──だ。
「とーたん」
 弥一はそう言って、俺に微笑み掛けると、小さな足で立ち上がってこちらによちよちと近寄ろうとした。愛嬌があり、可愛らしい盛りだ。
 我が子を傍へ寄せようと腕を伸ばした瞬間、俺の身体の節々に激痛が走った。
「うぐっ!」
 全身のあちこちが痛い。腕を伸ばそうとした時、特にアバラが痛んだ。
 ──なんだこれは? なんでこんなに身体が痛いんだ? 何故だ?
 俺はまじまじと自分の腕を見た。
 パジャマの袖から覗いた両腕には包帯が巻かれている。
 はっとして俺は自分の胸を触ってみた。ごわごわとした感触。コルセットのようなもので固定はされていないが、がっちり包帯で巻かれているようだ。
 怪我? 俺は怪我をしているのか?
 聞いた事がある。肋骨の骨折は固定出来ないので、治りが遅い。せいぜい湿布を付けて、包帯を巻く程度だと。
 俺はアバラを傷めている? もしかしたら骨折している?
 改めて自分の身に気を配る事で、やたら身動きが出来ない不自由な身体だと気付いた。
「うあ? どうなっているんだ……」
 目の前で父親の挙動を怪訝な瞳で見ている息子を差し置いて、俺は炬燵から這い出した。そこで俺は更に驚く事となった。なんと、右足ががっちり固定されているのだ。これは骨折か? たぶんそうだろう。ギブスと言ったっけ? 病院などでよく見かけるアレだ。
 何がなんだか解らない。俺はいつこんな怪我をしたんだ? どうやって?
 全身あちこちの痛みに引きずられて頭痛までして来た。ズキンズキンと頭が痛む。解らない事だらけの上に、強烈な頭痛と身体中に走る鈍痛、そして倦怠感。
「あら、炬燵から出たの? まだ痛いでしょうに……。何? トイレに行きたいの?」
 廊下を横切ろうとした杏子が俺の様子をちらりと見て、視界から消えた後にまた戻って来た。
「きょ、杏子、俺はなんで怪我をしているんだ? いつからだ? なんで怪我をしたんだ?」
 その時の俺は杏子から見れば不安な眼差しで妻にすがる情けない男に映っていた事だろう。
「何を言っているのよ。忘れちゃったの? あなたは仕事に行く途中、交通事故に遭ったのよ。車同士のね。もう車がぐちゃぐちゃになるほどの大事故だったのよ? 私、あなたが死んじゃったんじゃないかって大泣きしたんだから。どう? 思いだした?」
 事故? 交通事故? そう──なのか? 思い出せない──。
「頭も強く打ったから、その後遺症もあるみたいなの。あまり考えると頭が痛くなるみたいよ? 思い出すのはゆっくりにして、今は安静にしてなきゃ」
 言われてから、さっと頭に手をやると、なるほど、包帯が巻かれていた。頭も怪我しているというのは間違いないようだ。
「そう……か」
 そう言われると、そんな気がして来た。そういえば、前にも杏子に同じ説明を受けた気がする。きっと──杏子の言う通りなのだろう。
 俺は取り敢えず、それ以上考えるのを止め、今までほったらかしにしていた我が子を引き寄せて腕に抱いた。多少痛むが、まあ、これくらいなら大丈夫だ。騙し騙し動かせば問題ない。

 

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