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SF・ファンタジー・ホラー

– アイサイ – 第5章

   

– アイサイ – 第5章 美人で若い妻と可愛い息子に囲まれ過ごす幸せの日々──。

 だが男は静かに動き出す。
 此処が何処で、自分が誰なのかを知る為に──!

 

 次の日の朝。俺は猛烈な自己嫌悪に陥った。ここまで杏子の身体に溺れていたとは──。
 杏子の事を疑い、これから真実を知りたいと思っていたはずなのに、杏子とのセックスを期待してしまう自分が厭で嫌で仕方なくなった。
 しかし、それも昨日までだ。子作りが終了したというのなら俺も杏子とのセックスはきっぱり捨てなくてはならない。正直、惜しい気持ちが強い。それだけ杏子の身体は魅力的なのだ。だが、いつまでもそれでは前進は有り得ない。
 俺は気持ちを入れ替え、疑問点について改めて考えた。そしてその疑問を解き明かす為には少なくても、この身体をある程度自由に動かせるようにならなくてはならないという結論に達した。
 身体を癒しつつ、機を待つのだ。悠長に思えるかもしれないが、“急いては事をし損ずる”だ。今は耐えよう。

 この日の夕方、杏子が買い物に行った時に新聞を買って来てくれた。
 俺は久しぶりに読む新聞に夢中となった。杏子から奪うように手に取り、食い入るように読んだ。
 1986年3月22日! これが現在! これが今日の日付か! 漸く今が何時なのかを知る事が出来た。
 始めは杏子が過去の新聞を持って来ているのではないかと疑っていたが、目にしてみれば確かに今年は1986年だった気がする。それに、日付と山梨県の今の気候から考えるに、時間差は無いように思える。
 うむ。間違いない。これは今日の新聞だろう。
 ざっと読んでみたが、何も心に引っ掛かるものは無かった。チャレンジャー号爆発の新事実がどうとか、ハレー彗星がどうとか書いてあったが、どちらも興味のない事だ。
 杏子が日時を隠しているという疑いは杞憂だったのか?
 次の日も杏子は新聞を買って来てくれた。その次の日も。
 どちらも目新しい事は無く、東京の方で電車のでかい追突事故があっただのと、ごくつまらない内容のものだった。
 だが、新聞を読むようになって4日目は、杏子が忘れたという事で読めなかった。
 その次の日と、そのまた次の日はちゃんと買って来てくれた。なのに1週間目に当たる7日目はまた忘れたという事で読めなかった。
 しかし、この時の俺はさしてその事について深くは考えなかった。
 杏子がちゃんと当日の新聞を買って来てくれるという思惑外れの事に対して、ややがっかりしていた程度であった──。

 数日が経ったある夜の事。
 俺は強烈な悪夢によって深夜に飛び起きた。叫んでいたかもしれない。
「ん~……、どうしたのあなた?」
 ただならぬ様子の俺に、隣で寝ていた杏子が眠気まなこを擦りながら心配げに声を掛けて来た。
「だ、大丈夫だ。ちょっと悪い夢を観ただけだ。もう寝るよ」
「そう」
 杏子はそう返すとすぐに眠りに着いた。一方の俺はすっかり眠気が吹っ飛んでしまっていた。
 ──怖ろしい夢だった。
 何かから逃げ続ける夢だった。“捕まったら終わり”という強迫観念のような強いものがあって、とにかく逃げなくてはならなかった。
「………………?」
 徐々に落ち着く呼吸と動悸の中、俺はこの感じを前にも味わったような気になった。
 少し考えてから思い出した。
 2週間くらい前だろうか? 炬燵でうたた寝をして悪夢で目覚めた時だ。あの時も厭な夢で目を覚ました。
 ──ちょっと待てよ? その夢って、いま観ていた夢と同じじゃないか? ──同じような気がする。いや、同じだ!
 確信を持って言える。あの時に観た夢も同じ夢だ。起きた時の不快感と後味の悪さが全く同じだ。
 そんなに同じ夢を何度も観るものなのだろうか? ──判らない。夢の事など詳しく無かったと思う。
 けど、ここにもなにか鍵があるような気がする。これはただの夢じゃない。だとすれば何だ?
 ──俺は何かから逃げていた。何から?
 暗闇の中、俺は枕元にあった水差しからコップに水を注いで一気に飲み込んだ。やや温かったが、気分を落ち着かせるには十分だった。
 杏子はよく眠っている。冷静に考えてみよう。考えられる頭はもう復活しているのだから。
 何から逃げていたのか? それは判らない。思い出せない。ならば次だ。
 そいつらは人間か? 何か魔物のようなモノか?
 人間だった気がする。いや、人間だ。──2人? 2人の人間に追われていたような気がする。1つ前進した。次だ。
 そいつらは悪い奴らか?
 ──違う気がする。むしろ悪いのは──
「ぐあっ!」
 つい声が出てしまった。隣で寝ている杏子が目覚めたのではないかと目を向けると、幸いな事に彼女はぐっすり寝ていた。
 気付いたのだ。俺は、“何か悪い事をして追われていた”──。間違いない! そう思えるのだ。
 俺は何かをやらかして、2人の人間から逃げていた。俺を追うのは──誰だ?
「!」
 その時、天啓に似た何かが俺の脳髄に閃いた。
 ──警察? 警察! 警官だ!
 以前、家にやって来た警官を見た時に、俺は異常な程の恐怖を感じた。何故なら──俺は警官から逃げていたからだ!
 身体中の毛穴から汗がどっと噴き出したような感覚に陥った。身体がガクガク震える。
 ──間違いない。俺は警察から逃げていたんだ。何をして? 犯罪行為に決まっている!
 バラバラだった糸が繋がった。
 俺は犯罪者──。何らかの犯罪を犯して逃走中──。
 俺はいったい何をやらかしたんだ? そして警察から逃げるなんて愚かな事を、なんでしてしまったんだ?
 1つ前進し、また1つ新たな疑問が生じた。
 だが、それ以上に俺はまた別の恐怖に支配された。
 俺は逃げていた──。その途中で何か警察を上回る恐怖を味わった──?
 ──怖い恐いコワい!
 何かは解らないが、尋常ではない恐怖が沸いて来た。
 その夜。眠る杏子の隣で俺はバカみたいにガクガクと震え続けた。

 

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