幻創文芸文庫 (β)

小説好きの創作小説を無料配信*スマホ対応

SF・ファンタジー・ホラー

– アイサイ – 第7章

   

 美人で若い妻と可愛い息子に囲まれ過ごす幸せの日々──。

 全てを思い出し、それらが偽りのものである事を知った男。

 男は何者なのか?
 男に何が起きたのか?

 物語は終局へとひた走る──。

 

 俺の名前は『轟敏明(とどろきとしあき)』。歳は38歳。独身。結婚歴なし。ブサイクな為に女にモテず、付き合った事すらない。女といえば風俗だけだ。
 職業は──、職業と言っていいものか判らないが、ちんけな──空き巣をやっていた。
 正確な日時は覚えていないが、二月の頭に俺は東京に在る、とある民家にいつものように侵入した。とても寒い日だった。
 早々に物色も済み、獲物を頂いたところで首尾は上々──のはずだった。
 家から出ようとした時に巡邏中の警官と鉢合わせした。警官が見回りに来ないルートの家を選んだのだが、俺にとっては──いや、お互いにとって最悪な事に、その日に限って、暇を持て余したその警官の気まぐれで普段来る事の無いこの付近にまでやって来ていたのだ。
 直ぐに俺達は揉み合いとなった。俺としては捕まって堪るかと必死に抵抗し、向こうとしては絶対に捕まえてやると必死に俺を押さえ付けた。まあ、当然の成り行きだ。
 そしてそこで俺は警官を殴った。全力で殴った。殴られた警官は予想以上に吹っ飛び、勢いよく玄関先のコンクリートにゴヅンと頭をぶつけた。
 警官はピクリピクリと新聞紙で叩き潰したゴキブリのような動きをするだけで起き上がって来なかった。頭からは大量の血が流れ、コンクリートを真っ赤に染めた。
 俺は恐怖した。殺す気など無かった。ただ逃げられれば良かっただけだ。それでもやってしまった事には変わりはない。
 俺は警官を殺してしまったと思い込んだ。警官殺しはきっと罪が重いだろう──。
 それで俺は──逃げた。生死の確認をしていなかったので即死だったのか、その後に死んだのか、それとも一命を取り留めたのかは判らない。だが、もし生きていたとしても、警官に危害を加えたんだ。ただの空き巣より罪が重くなる事は確かだろう。
 俺は大した考えもせずに、最寄りの駅から北に向かう電車に乗った。その電車で行ける所まで行き、また乗り換えて、有り合わせの金で行ける所まで行った。其処が山梨の何処かだったのだろう。
 持ち合わせを全部電車代に使ってしまった俺は、下りた駅から更に人気のない方、人気のない方へと逃れて行った。その日は潰れた店の軒先で寒さに震えながら寝た。寒さと空腹で酷くひもじく、辛かったのを覚えている。
 次の日、俺は人目を避けながら寂しい道を当てもなく歩いていた。これからどうしたらいいのか全く分からなかった。絶望感だけが心に有った。
 山道に差し掛かった時だった。遠くからパトカーのサイレンの音が聴こえて来た。そのパトカーが本当に俺を捜しているものなのか、何の為に鳴らしていたかは判らないが、警察から逃亡しているという負い目のある俺にはそれだけで恐ろしかった。
 俺は道から林の中へと慌てて身を隠した。
 ところが近付いて来たパトカーに乗っていた警官は目ざとく俺を発見したようだった。隠れるのが遅かったのだ。
 急停車すると、中から二人の警官が降りて来て、こちらにやって来た。何事か叫んでいる。
 俺は逃げた。とにかく道から遠ざかろうと全力で木の間を駆け抜けた。
 警官も俺を追って来ているようだった。俺は必死になって薄暗い木立ちの合間を縫って走った。
 突然の事だった──。ふっと身体が浮いたかと思うと、坂を転がり落ちた。ガツンガツンと身体中をぶつけながら器用に木の間を抜けて下まで落ちて行き、遂には川に落ちた。
 幸いな事に浅い川だったので溺れる事は無かったが、まだまだ雪が残っている真冬の山梨だ。俺は身体は芯から冷えた。
 だいぶ川に流された後に、なんとか岸に這い上がった俺は林の中をよろよろと彷徨った。周りには誰も居なかった。警官達に見つかった場所からだいぶ離れたようだ。警官どころか人っ子一人見当たらない。
 静寂に包まれている林の中を、凍える身体に何とか力を込めて歩いた。このままでは死ぬという恐怖がどんどん沸いて来た。死ぬよりも警察に捕まった方がマシだ──。そう思うようになった時だった。
 急に視界が広がった。林を抜け、何処か別の道に出たようだった。だがその時の俺には周囲を認識する余裕すら無かった。寄り掛かる物が無くなった俺は道路へと倒れ掛かった。
 そこで俺は更なる不運に見舞われた。折しも、俺が林から急に現れ、道へと倒れ込んだタイミングで其処を通る車があったのだ。
 俺は車と接触した。激しい衝撃と、次いでやって来る痛み。アスファルトの上へと吹っ飛びながら、俺はぼんやりと車に轢かれた事を知った。
 この逃亡生活も終わりだ。病院に運ばれ、其処で警察に捕まる。身体がある程度癒えたら刑務所──。そううっすらと考えていた。それでも凍死よりかは万倍もマシに思えた。
 ところが事態は予想外の展開となった。
 すぐに運転手が降りて来るか、救急車と警察への連絡に走り出すかと思われていた車が、ゆるゆるとバックを始め──急発進をして更に俺を轢きに来たのだ。
 二度目の衝撃。俺はアスファルトの上を無様に転がった。身体がまるで動かない。
 俺は理解出来なかった。何故、この運転手はまた俺を轢くのだ?
 またバックを始め、俺への狙いを定めた。
 このままでは殺される! ──俺はそう感じた。この運転手は俺を殺す気なのだ!
 警察に捕まる恐怖。凍死の恐怖。二つの恐怖を上回る強烈な恐怖が俺の全身を駆け巡った。轢き殺される!
 そして三度目の接触の時、俺はバンパーに頭をしたたかに打ち付けた。
 記憶はそこで途切れ、目覚めた時はこの家の炬燵の中だった。
 あの頭の打撲が原因で俺は記憶を失っていたのだろう。
 その間に何があったかは思い出せない。──が、炬燵で目覚めた時にあやふやな情報を既に持っていた事から、意識が朦朧としている俺に杏子が刷り込んでいたと考えられる。
 俺を──、俺を轢いたのは──、杏子だったのか?
 何度も観た悪夢。あれは警官に追われる夢であると同時に、車に轢き殺されそうになったという現実のものだったのだ!

 

-SF・ファンタジー・ホラー


コメントを残す

おすすめ作品