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童話 / 寓話

はなのほし

   

 やがて気が付けば、辺りはしんと静まり返っていた。
 叫び声も笑い声ももう聞こえない。葉や茎を食い荒らす恐ろしい音も、無数の芋虫が這い回る地鳴りのような音も、何も聞こえない。
 つい数分前に見た地獄のような光景が、全く完全なる嘘であり夢幻であるかのように、夜の草原は静寂に満たされた。
 静まり返る草原の夜空に、やがて赤い花の兄弟が絞り出した嘆きの悲鳴が、長い長い尾を引いて響き渡る。
 怒りと自責と哀惜とをないまぜにした叫び声だった。
 祈るように、呼び寄せるように、突き放すように、逃げ出すように、立ち向かうように、あらゆる命運を呪うかのように、その叫びは、真っ暗な夜空に何処までも何処までも駆け上っていった。

 一睡も出来ないままに、赤い花の兄弟は朝を迎えた。
 夜明けなど来なければ良い、とさえ思ったのは、太陽の光で明らかに照らし出される、黄色い花と紫の花の残骸と、荒れたその墓場を見たくないと思ったからだ。
 だけれど朝を迎え、太陽の光が辺り一面を白々と眩く照らしてくれる頃、胸を締め付けられるほどの愛しさと感謝の念を抱いたのは、その光がいつも、絶望の中の希望にたとえられると知っているからだ。荒れた地面にひとり佇み震えていた白い花に、赤い花の兄弟は掠れた声で呼び掛けた。救いの神の慈悲に泣いて感謝しているような、そんな泣き声だった。
「あぁ、良かった、無事だったのですね。白い花さん、あなたは無事だったのですね」
「あぁ、良かった、本当に良かった。あなただけでも助かって、本当に良かった」
 絶望の中の一滴の希望に声を弾ませる赤い花の兄弟だったが、白い花は、彼らに何も答えようとはしなかった。
 大輪の真っ白な花をやがて咲かせるはずだった蕾は、辺り一面に飛び散った芋虫の薄黒い体液に塗れて、すっかり薄汚れてしまった。もともとの蕾の重さに、ずっしりとした粘液の重量も加わり、太く逞しい茎もさすがに重そうに猫背になっている。緑の葉も点々と黒く染まり、その姿に以前のような高貴さはなかった。太い茎を真っ直ぐに伸ばし、肉厚の葉を広げ、初春の青空に向けて、大きな白い花を一つ、挑むように咲かせる姿は、見れば胸のすくような、堂々とした立派な佇まいだった。けれど今や白い花は、土砂降りの街道沿いの植え込みで、駆け抜ける車輪が跳ね上げる泥水を、幾度も被ってすっかり汚れてしまった花のようだ。汚れて項垂れるその姿は、とても憐れに見えた。
 白い花は、誰に聞かせるでもなく、一人呟く。
「こんなに汚れてしまった。俺の蕾が、こんなに汚れてしまった。俺の真っ白な花弁が、真っ黒に汚れてしまった。茎も葉も、すっかり薄汚れてしまった。雨でも降れば、綺麗に戻るだろうにな。あぁ、花が開いたら、綺麗な白が誇れるだろうか。花弁の内側にまで汚れが染み込んでしまっていたら、大変だ。俺の綺麗な真っ白な花は、ちゃんと綺麗に咲くだろうか。雨が降れば良いのに。雨が降れば、汚れも綺麗に落ちるだろうに」
 呟く声に、力はない。弱々しい溜息のような、とても小さな呟き声だった。まるで夢の中で呟いているような、空虚な声だ。微かに赤い花の兄弟にもその声は聞こえたけれど、とても会話に値する声量ではない。いや、声量のせいだけではない。白い花の意識は、赤い花の兄弟の存在など全く認識してはいないのだ。
 夢の中に、いるのかも知れない。
 黄色い花の笑い声も、紫の花の叫び声も、白い花はすっかり忘れているのかも知れない。
「汚れてしまった。真っ黒だ。雨が降れば良いのに。雨が降れば汚れが落ちて、綺麗な真っ白な花が咲くのに。雨が降れば良いのに。雨が降れば真っ黒な汚れが落ちる」
 同じ事を繰り返し繰り返し、白い花は呟く。
 黒い芋虫を使って他の花を枯らした翌朝は、いつも決まって晴れやかな顔でご機嫌に笑っていたものだが、今回はそれまでとはまるで様子が違っている。
 勝者の栄光や優越感など、その姿の何処にも見えない。
 無残なその様を見て、赤い花の兄弟は言葉を詰まらせた。
 言葉を詰まらせたその原因は、兄と弟とで、違っていた。
 赤い花の兄は、しくしくと痛む胸の奥で思った。
「昨夜はあまりにも残酷な夜だった、白い花も大変な恐怖を味わった。そのせいで、きっと正気を失ってしまっているんだ。可哀想に。掛ける言葉も見つからない」
 赤い花の弟は、じくじくと疼く腹の底で思った。
「ふたりの仲間が無残に枯れ果て、自らもその危機に瀕したというのに、今なおこのひとは自らの罪を悔いるでもなく、自分の事しか考えていない。何て薄情なひとなんだ。口も利きたくない」
 東の空から注がれる太陽の光は、少しずつ明度を増して、朝の柔らかさを含み始める。
 その地は一層無残な姿を、柔らかな日の下にさらけ出す。
 黄色い花、紫の花の僅かな残骸。ぐずぐずに噛み散らかされた、無数の芋虫の死骸。一面を濡らした薄黒い粘液、汚れた白い花。
「あぁ、雨が降れば良いのに」
 他のどんな言葉も思いも失ってしまったように、白い花は何度もそう繰り返す。
 赤い花の兄弟は、口を噤んだままでいた。太陽の熱に温められ、やがて風に乗って周囲に漂う死の匂いを、黙り込んだまま感じていた。
 彼らの傍らに立ち、同じように死の匂いをその身に受けていた大樹の古老は、我が目を疑い、種を繋げていくはずの「生物」という存在に対して、今まで自分が抱いて来た認識を、改めずにはいられなかった。
 昆虫と植物とは、とても深い関係にあると思う。
 古老の身にも、数え切れないほどたくさんの虫達が寄り集まって、依存して生きている。そして古老自身もまた、虫の助けを借りもする。古老の身に害をなすものを取り除いてくれる虫がいたり、他の木々との仲を取り持ってくれる虫がいたりする。

 

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