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童話 / 寓話

はなのほし

   

 そこにはすっかり何もなくなってしまった。
「あぁ、青い花は亡くなってしまった。見てごらんなさい、逞しい茎も葉も、もうない。あんなに無残に引き裂かれて、辺りに散らばっています」
「えぇ、あんまりです。大きく膨らんだ蕾も、もう跡形もない。あんまりです。助けて、と、あれほど悲しく泣き叫んでいたというのに、誰にもあの悲鳴は届かなかったというのでしょうか」
「そんなはずはない、そんなはずはありません。誰もがあの悲鳴を確かに聞いていたはずです。だけれどあのひと達は、誰もが笑っていました。いい気味だと、痛みにのたうち、毒に焼かれて悶え、泣き叫ぶ姿を見て、あのひと達は愉快げに笑っていました」
「そんなはずはない、そんなはずはありません」
「えぇ、そうです。そんなはずはありません」
「ひとの痛みをこれっぽっちも感じられないなんて、そんなはずはない」
「ひとの声がこれっぽっちも聞き受けられないなんて、そんなはずはない。そうです、きっとあのひと達は、大切なことを忘れてしまっているのです。大切なことは、きっと思い出せるはずです」
「きっと解り合えるはずです。きっと認め合い、許し合えるはずです。きっと助け合えるはずなんです」
「えぇ、きっと。きっとそうです」
「きっとそうです」
 祈るように、赤い花の兄弟はそう繰り返した。
 月夜の薄ぼんやりとした光が、無残に掘り返され、乱れた地面を照らしている。
 青い花が凛と佇んでいたその地面は、今ではすっかり汚れてしまった。食い荒らされた花弁や葉や茎や根の残骸が、ぽつりぽつりと乱れた土陰に零れている。
 根っこまで綺麗に食い尽くされてしまった。
 青い花は、もう咲かない。
 青い花は、もう二度と咲かないのだ。
 夜風に吹かれて、花弁の小さな欠片が微かに揺れて、それを見た赤い花の兄弟は、声を押し殺して一層悲しく泣いた。
 夜天を月が穏やかに下り、やがて東の空から日が昇る。
 泣き疲れて眠った赤い花の兄弟の、痩せた蕾の頬にも、白々とした日の光がそっと触れた。

 真っ直ぐ頭の上から射す眩い日の光。
 優しく明るい陽射しが、草原に集う様々な草花や虫や鳥や木々や獣達を、分け隔てなく平等に包み込んでいる。
 包み込む陽射しの中に、一際大きな樹木がある。
 この草原を囲む木々の中で、いや、この山全体から見ても、特に大きな木に違いないだろう。
 草原の片隅に太い根を張り巡らせて、威風堂々たる立派な幹を支え、四方に伸ばした枝や、綿毛のような無数の葉の中で、多くの鳥や虫達の生活を助けている、古老の木だ。
 古老はいつも、草原を囲む山の木々を見つめていた。
 古老はいつも、草原に行き来する虫や鳥や獣達を見ていた。
 古老はいつも、草原の花達をじっと見下ろしていた。
 いつもと同じ、温かな日が降り注ぐ昼下がり、古老は自分の根元がほんの少し寂しくなっている事に、すぐに気が付いた。
 気付いていたとも。
 昨晩の花達の騒動は、きっとこの草原の誰もが聞き知っているはずだ。
 朝になって日が昇り、辺りが明るくなってから根元を見下ろすと、今日には咲いていただろう大きな蕾を掲げた青い花が、跡形もなく消えていた。
 昼過ぎになって、古老の一番太い枝の上に、一羽の黒い鳥がやって来てとまった。
 枝にとまると、乱暴なくらい大急ぎで羽の手入れをし始めたその黒い鳥に、古老は声を掛けてみた。
「やぁ、お前さん。どうしたね、そんなに熱心に羽を弄ったりして」
 黒い鳥は、古老に声を掛けられると、腹立たしげに喉を鳴らしてこう答えた。
「ちょいと聞いて下さいよ、大きな木の旦那。いやね、あたしと将来を誓い合った娘がいたんですがね、あの娘ったら、『あんたよりもあっちのひとの方が、羽の黒い艶が素敵だから』なんて言って、他の男と連れ立って行っちまいやがったんですよ。あたしの黒艶だって、そうおかしなものでもないでしょうに。ねぇ旦那、どう思います? あたしの羽、そんなに艶がないですかね?」
 黒い鳥はいらいらしながら早口に言って、古老の評価を急くように、大きな黒い翼を広げて見せた。両腕の翼に、隙間なくびっしりと敷き詰められた黒い羽の滑らかな表面が、日の光に青く煌めく。
 古老はそんなに勢いよく返事をされるとは思わずに、何気なく声を掛けただけだったので、多少面食らってしまった。けれどすぐに気を取り直して、ざわりと枝葉を鳴らして唸ってみせる。
「いやいや、お前さんの黒艶だって立派なもんさ。月夜の水面のように、きらきらと光ってとても見事だ。けれど何、心配は要らんよ。お前さんほど、綺麗で立派な黒い艶羽を持っている者ならば、きっとまたすぐ、似合いの娘さんと結ばれるに違いないよ」
「おや、本当ですか、旦那。そう言ってもらえると、少しは気が晴れまさ」
 さっきよりは幾らか調子を明るくして、黒い鳥は言う。
 それからまた、さっきよりもずっと丁寧に羽の手入れをし始める黒い鳥に、古老はもう一度声を掛けてみた。
「ところでお前さんは、この辺りにはよく来るのかい?」
 あまり見覚えのない鳥だったので、古老はまずそう問い掛けた。
 黒い鳥は尖ったくちばしを、左右にぷるる、と振るって答える。
「いえいえ、あたしはもっとずっと、お山の下の、町の方で暮らしてる者です。今日は娘の事でイライラしてまして、気を紛らわそうと、ちょっと遠くまで羽を伸ばして来てみたんですよ」
 そう答えてから不意に、黒い鳥はまるで喉に何かつまらせたように「クェッ」と鳴いて、慌てて羽をばたつかせた。
「おや! もしかしてもしかして、こりゃ失礼! もしやこの辺りは余所者がお嫌いですか? この辺りに来るのにお許しでも要るんでしたら、あたしは全く無法者じゃないか! こりゃまずい、お叱りを受ける前に早く出て行かないと」
 口だけじゃなくて、何て気の早い奴だろう、と古老はまた面食らって、こちらも慌てて呼び止める。黒い鳥は、言うが早いか早速羽をはばたかせて、飛び去ろうとしていたのだ。

 

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