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SF・ファンタジー・ホラー

外道症候群 1

   

不可解な事故で妻子を失った日延宗一の前に現れた謎の男、あやし。彼は宗一の左手に触れ、「救い」の力を貸すと言った。宗一はそれを、精神状態が不安定であるせいで見た夢だと思ったが、彼の身に徐々に変化が起き始める。愛する妻子をわけもわからず失った絶望と、不安定な精神が見せる、現実とは思えない奇妙な現象に、宗一は平常心を失っていく。そんな彼が縋りつくものは、娘の里香が大切にしていた子犬のぬいぐるみだった。そのぬいぐるみには里香の香りと、里香の血が、染み込んでいる。

 

 「救い」をもたらすのは、常に、「善良な心」である。

 「哀れ」というほか、言葉はなかった。
 妻子の葬儀を終えた夜、日延宗一(ひのべそういち)は、闇を纏ったような喪服姿のまま、寒々しく散らかったままの子供部屋に、一人横たわっていた。
 腕には、一人娘、里香が特に好んでいつも持ち歩いていた、子犬のぬいぐるみを抱き締める。
 カフェオレの色によく似た毛色の、全長三十センチ大の可愛らしいぬいぐるみだ。
 それを胸に抱く宗一の目は、虚ろに濁っていた。
 身を刻むような真新しい悲哀と、現実に対する強い疑念が反発しあい、いつしかそのいずれもが重い疲労に変じてしまった。
 寝転がった床の上、笑顔のキャラクターが描かれたチェストの下の綿埃を、無感情にただ見つめている。
 何も考えられなかった。
 柩の中に眠る、まだ五歳だった里香は、小さかった。
 そして、妻の柩は、大き過ぎた。
 娘の里香も、妻の早苗も、その身体の大半を失っていた。
 体型に相応のはずの柩の内部が、異様に余るくらいに。
 その姿は、無残と以外に言い様がない。
 そして、そんな風に愛する妻子を一度に、突然に失ってしまった宗一もまた、「哀れ」と以外に言い様がない。
 警察に通報した時、宗一はひどく混乱していた。
 快晴の日曜日、庭先で戯れる妻子の笑顔を、宗一は室内から見つめていた。
 家にまで仕事を持ち込んだ事を後悔しながらも、妻子の笑い声を聞きながら、会議で必要な資料を完成させるため、ノートパソコンのキーを忙しなく叩いていた。
 青い空を悠々と流れる白い雲と、温もりを持つ柔らかな春の風。甲高い里香の笑い声と、庭の芝生を転がり回る楽しげな騒音。
 心地良いそれらの音を聞いていた。
 その数分後、宗一は震える両手で受話器を抱え、不規則に乱れる呼吸に喘ぎながら、電話口でこう叫んでいた。
 「バラバラになってる! 早苗と里香が、庭でバラバラになってるんだ!」。
 白い塀に囲まれていた、狭いながらも美しい庭は、妻子の鮮血で真っ赤に染まっていた。
 ふと二人の笑い声が聞こえなくなったことに気付いて、疑問を覚え、もう一度庭に目を向けた。そうしたらもうすでに、どこもかしこも真っ赤に染まり、愛する妻子の肉片があちこちに飛び散っていた。そして一部は「紛失」していた。
 信じられなかった。
 だけど、現実だ。
 容易には受け止め難い、辛過ぎる現実だ。
 現実だと、認めてはいる。
 でも、納得出来ない。
 なぜ? どうして? 何が起きた?
 問い掛けても問い掛けてもわからない。
 何をどれだけ考えても、納得のいく答えは出て来ない。
 だから、考えることをやめた。
 今は、里香が大切にしていた子犬のぬいぐるみを、ただ抱き締めて、身体を丸めてぼんやりとするだけだ。
 カフェオレ色の生地に、里香の血を黒く染み込ませたぬいぐるみを抱き締める。
 柔らかかった手触りも、今は違う。血で固まってザラつく。
 だけどもうどうでもいい。
 考えてもわからないのなら、どうしようもないのなら、もう何も考えない。何もしない。
 涙を流すことさえ、もうしたくない。
 ぬいぐるみを抱えて床に丸くなり、ただ空虚になっていく宗一の傍らに、もう一人、喪服姿の人物が立った。
 さらりと靡く黒髪と、柔らかな眼差しを鋭利な眼鏡レンズで覆った男だった。
 男は、床に横たわり呼吸だけを繰り返す宗一を見下ろし、囁きかけた。
「可哀相に……あなたを見ていると、心が痛みます。あなたの悲しみが、私にまで伝わってくるようで……」
 葬儀は終わり、今家の中には宗一しかいない。宗一の精神状態を危ぶんだ親類が一緒にいようと言ったが、一人でいたいと言って断った。妻子の思い出と匂いが残るこの家の中に、一人引き篭もったのだ。
 夜中に弔問客でもないし、親類縁者にも聞き覚えのない声の持ち主が、今この家の中にいるはずがない。
 冷静で、穏やかで優しく、抑揚のないその声に、宗一はまったく覚えがなかった。
 だが、身を起こして振り返ることはしない。
「救ってあげましょう」
 そう言われても宗一は、男に対して興味など欠片も持ちはしなかった。
 男が宗一の傍に寄り、膝を折って身を屈め、手を伸ばす。
 ぬいぐるみを抱き締める宗一の左手に、男は自らの手を重ねた。
 触れ合う接着面が、温かい。
 いや、熱い。
「その悲哀の束縛から脱け出す力を、お貸ししましょう」
 熱い。
 焼けるように、左手が熱い。
 けれど呻きもせず、宗一はじっとしていた。
 ただ視線だけを動かして、自分の左手に重ね置かれた、誰とも知らぬ男の左手だけを、見た。
 何の変哲もない、色白な人間の手。
 けれど、重ねられた左手は徐々に確実に高熱を与えられていく。
 やがて、その高熱が焼き出す苦痛に負けて、宗一の意識は失われた。
 気が付いたのは、翌朝である。
 宗一は、寒々しく散らかった子供部屋に一人横たわっていた。黒い喪服姿のまま、血で汚れた子犬のぬいぐるみを抱いて、一人。
 ゆっくりと起き上がり見回すが、男の姿も痕跡も、どこにも何も見当たらない。
 高熱を与えられた左手を見る。
 火傷も何もない。
 見慣れた自分の手、何の変哲もない人間の手だ。
「…………」
 夢だったのだろう。
 もう何も考えたくないのに、見せられた、奇妙な夢。
 「救う」? 「悲哀から脱け出す」?
 何て安っぽい夢だ。
 宗一の願望そのものが、夢という妄想の中で、冒険漫画のありきたりな展開を見せた。
 何て安っぽい、陳腐な夢。
 だけど――
 宗一は、もう一度、左手を見つめた。
 何の変哲もない、人間の手を。
「救う……?」
 嘲るように、疑うように、縋るように、呟いた。
 呟いて、血に汚れたぬいぐるみを抱き締めた。

 「救い」を告げる奇妙な夢から覚めた朝。
 いや、朝というより正午に近い。

 

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