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ラブストーリー

うみのおと 1

   

フィルムに収められた魂。
僅か二十数分の愛。

女子中学生と中学教師。
一冬の旅。
男は波間の果てにあるそれを見つめ、少女は男の背中を見つめていた。

 

 海から碧の風が吹き込んでくる。風は生ぬるく湿っていて少し重い。恭子は海風に翻るスカートの裾を気にしながら、先生の下へ走って行った。

「先生、海が荒れてきました」
「ああ」

 声をかけても、先生はああと返事をするだけでカメラを離さない。風はますます強くなり、鉛色に濡れた砂に足を取られて転びそうになる。先生は熱心にカメラを覗きこんでいて気づかない。徐々に夕闇が迫り、あたりは暗くなってくる。天気がよければ見られるだろう夕焼けも、その日は見られず、ただ薄墨色をした雲が広がるのみだった。
 二学期の終わり、恭子と先生は、ほんの少しのお金と最低限の着替えを大きな鞄に詰め込み、冬休みを利用しての旅に出た。恭子の父親は外国に単身赴任中で、冬休みになると同時に母親も、クリスマスと年末年始を家族で過ごしたいという父親の希望に沿うため、小学生の弟を連れ、恭子を残して機上した。恭子は中学三年生で、受験を控えていたために残されたのだ。だから誰にもなにも言わず、一緒に来ないかと言う先生の言葉のまま、旅に出る事が出来た。

「先生、もう暗くないですか」

 空模様もあやしくなってきた。恭子が再度声をかけると、先生はようやくカメラから顔を上げる。青黒い顔に疎らに伸びた不精髭、そしてぼさぼさになった短い髪には白髪が少し見える。ここ数日でずいぶん老けこんだ。カメラを回すのに邪魔になるからと捲り上げた袖口から覗く腕は、枯れ木のように細い。まるで老人だ。だが先生は三十六で、まだまだそんな歳ではない。つい数週間前までは、明るく健康的な肌をした普通の教師だった。それが今は見る影もない。
 風に呷られて吹き飛ばされそうになりながら、先生は鉛色の空を見上げる。見上げた先から雨粒が落ちてきた。先生は夢中で走る。空を見上げ、その粒が落ちる先へと必死で駆ける。そして数メートル走った所で、濡れた砂に足を取られ転んだ。

「先生っ……」

 恭子は慌てて先生の所まで走った。先生は砂地に片手を付き、蹲っている。もう片方の手には、大事に抱えられたカメラがある。恭子は先生の丸まった背中を見ながら大丈夫ですかと声をかけた。

「ああ、大丈夫、カメラは無事だ」

 聞いたのはカメラの無事じゃない。そう言いたかったが、唇は動かなかった。それは言ってはいけない言葉のように思うからだ。
 先生が大事にするのはカメラ一つ、もう幾時間もフィルムを回し、海を、山を撮り続けたカメラだけ。時代遅れのHDハンディカム、だがそれでも一応プロ仕様だ。それが今の先生にとっては命より大事な物だった。

 

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