幻創文芸文庫 (β)

小説好きの創作小説を無料配信*スマホ対応

ノンジャンル

ホーム

   

介護施設で働く皆城は、晴れた日の夕暮れ時、ふと思うことがある。
ずっと昔に観た映画のワンシーンが、無力感を伴って皆城の精神を染める。

 

 昔観た映画を思い出す。
 自然災害のパニック映画だ。
 大規模な山火事が起きて、舞台となる小さな町の人々は必死に逃げ出す。
 だが、片側は断崖絶壁、片側は広大な森に挟まれた古いモーテルにいた人達は、森を焼いて四方から迫り来る炎の波から逃げる術も見い出せず、呆然としていた。
 思い出すのは、そのシーンだけだ。
 人々は、建物の外に出ている。焼ける木々の悲鳴を響かせて、夕闇の地平線を真っ赤に染める炎。地上のすべてを覆い尽くさんばかりに襲来する炎の壁を、モーテルの従業員や客達は、言葉もなくただぼんやりと見つめていた。
 そのシーンでの、俳優一人一人の表情や、立ち位置や服装も思い出せる。
 だけど、映画のタイトルは思い出せない。結末がどうなるのかも忘れてしまった。出演俳優の名など一人も覚えていない。
 ただ、子供の頃、テレビで一、二度観たことは確かだ。
 迫り来る圧倒的な規模の山火事に、抗う術も持たずただ呆然と立ち尽くす。
 そのシーンを、思い出す。
 晴れた日の夕暮れ時、二階西側の窓の前に立つといつも、そのシーンを思い出す。
 窓から見える景色は、延々と続く田園風景ばかり。緑に埋め尽くされる地平線を、沈んでいく夕陽が真っ赤に染めている。緑に埋め尽くされた大地の遥か向こうから、まるで真っ赤な炎がじりじりと迫って来るように見えるのだ。
 後ろは深い海へと誘う断崖絶壁。前は広大な森で、森はどっちを向いても炎に巻かれる。
 逃げ道がないことを知っている彼らは、ただ呆然と、立ち尽くしていた。
 そんなシーンを、思い出す。
 皆城充彦が働く小さなこのグループホームは、のどかな田舎町にある。
 二階建ての三角屋根の家だ。個人宅としては大きいが、施設としてみれば小さい建物である。
 ここには、五分前の記憶も曖昧な老人が八人いる。八人の老人達の身の回りの世話を、今夜は皆城と、三歳年上の三十六歳の先輩職員、笠原と二人で行う。八人を二人で看られるのだから、今夜はとても幸運だ。普段は人手不足のせいで、夜勤はいつも一人きりなのだ。
 人手不足は慢性的で、辞めたくても引き止められて辞められない。皆城自身にも、ここを辞めてもどこで働けるかという不安があるから、以後の生活を考えると、思い切れない。
 夕陽の炎が西の田畑を燃やす今、笠原は老人達の食事をつくっている。皆城は物干し台から取り込んで来た八人分の衣類やタオル、シーツなどをそれぞれの場所に収納し終えて、一人の老人の我儘に付き合って「あやとり」をしていた。それからオムツ交換の時間だ。順番に老人達の下の世話をする。各部屋を回るため、手袋やタオルなど必要な道具を乗せるカートを、階段脇の所定の位置まで取りに行こうとした。
 その途中で、異臭を嗅ぎ取ってしまった。
 何を意味する異臭かはすぐにわかった。
 排泄物だ。
 何の匂いかはすぐにわかったが、出所がわからない。
 テレビなどのある談話室には、現在四人の入居者が思い思いに寛いでいたが、みなごく普通の姿形で椅子に座ってテレビを観るなどしている。
 談話室すぐそばにはトイレがある。今現在ホールにいる人達は、介助なしでも一人歩きが出来る人達だ。
 だが、一人で歩き回れるというそれだけでは、信用出来ない。
 トイレを使って、水を流していないのは日常茶飯事だ。尻をよく拭かずに便をこびりつかせたまま出て来て、平気な顔をして談話室の椅子に戻っていることもある。
 まったくそんな素振りも見せず、素知らぬ顔で突拍子もないことをする。
 ここにいる人達のほとんどが、そんな症状を見せている。
 皆城は談話室にいる人達一人一人に、急いで近付き声をかけたが、目も合わせず何も答えなかったり、問いかけとまるで違う答えを返したりで、言葉は何の役にも立たなかった。
 けれど実際、言葉で確かめるより嗅覚で確かめる方が、ずっと早くて正確だった。
 窓際の痩せた老女が、そうだった。彼女のそばに立つと、独特の匂いが鼻を衝く。
 彼女は、皆城が何を言っても、何も答えずにいた。
 もう慣れている。
 彼らの目に皆城達の姿が見えず、耳にその声が届かないのも、もういつものことだ。
 黙々と「作業」をこなした。道具を用意して、彼女をそばのトイレに連れ戻し、服を脱がせて、身体についた便を綺麗に拭き取り、ぬるま湯で汚れを洗い落とし清拭布で水気を拭い、下着とズボンを替えた。彼女は終始静かなまま、何をされても抵抗などしない。
 慣れた手付きで忙しなく動きながら、今度は幼い日のワンシーンを思い出していた。
 中学を出るまで暮らしていた皆城の生家は古い家で、虫やネズミがしょっちゅう出入りしていた。台所の片隅に、ある時母が、ネズミ取りの罠を仕掛けておいた。厚紙の表面が強力なとりもちで覆われているもので、床の上にそのまま放置しておくだけの安価な罠だ。
 十歳になるかならないかの頃だった。
 小学校から帰って、ランドセルを居間の畳の上に投げ出して、台所に駆けて行く。そこでコップに水を一杯注いで飲んだ。その日は五月の一番暑い日で、喉がからからに乾いていた。井戸水だから、水道水をそのまま飲んでも薬品臭はない。渇いた喉に染みわたる冷たい水が、どんなジュースよりも甘く美味しく感じられた。
 家にはいつも母と祖母がいるけれど、その日は二人とも外出中で、家の中には皆城一人だけだった。
 水を飲んで喉を潤して、それから冷蔵庫を開けて、何か摘まめる物はないかと漁っていた時だ。
 ばたん、と音が聞こえた。
 重みのある硬いものがぶつかるような、渇いた音だ。
 誰か家に帰って来て、荷物か何かを玄関に下ろした際の音だと思った。冷蔵庫のドアを閉じて、玄関を見に行ったが、誰もいないし、物音を発するような荷物もない。
 気のせいかと思い、再び台所に向かって冷蔵庫の中を隅々まで見てみる。
 ばたん。
 まただ。
 同じような音が聞こえて、辺りを見回す。

 

-ノンジャンル


コメントを残す

おすすめ作品