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SF・ファンタジー・ホラー

漂着のカルネアデス〜前編〜

   

 この物語は、『個人の証明』がどこにあるのか探る物語です。
 この世界には記憶を死なせない技術が多数あり。すべてそれぞれ欠点はあるものの、記憶を脳内から取り出し別のところに保存しておくことによって、人間は死なないという選択が可能になりました。そしてその技術が病に引きはがされた少年少女に新たな形で出会いを提供します。
 これは、世界に殺されてしまった君に出会える唯一の物語。

 

 
 僕は誰だろう。
 僕は僕がだれかという情報を持たない。
 ここはどこだろう。
 僕はここがどこかという情報を持たない。
 自分が今までどこで何をしていたかという情報があれば、あるいは、誰かが僕の名前を呼んでさえくれれば、たちどころに僕を思いだし。
 僕はどこで何をすべきか分かるだろう。
 けれど僕にそれを思い出せる情報はない。
 改めて僕は世界を感じてみる。
 聞こえてくるのは時計の針の音。そして家電が動いているようなウーと小さく唸る音。そして背中に感じる、固く冷たい感触。
 ここはどこだろう。それだけわかっても僕は僕が置かれている状態を想像できない。
 ああ、なんて情けないんだろう、僕は僕の記憶、それがないと僕は自分がだれか定義できないのだ。
 それは僕という存在は、過去から積み重ねた時間の連続の上に成り立っているということであり、記憶に強く依存しているということに他ならない。
 簡単に言うと、自分が自分をどう思うかが重要だけど、記憶がないせいでどうも思えない。
 そう言う状態だ。
 記憶が欲しい、過去の記憶が。
 この不安から逃れたい、自分がだれか分からない、何者とも定義できない現状なんて涙が出るほどつらい。
 だから僕は必死に思い出そうとする。
 昨日のお昼ご飯、半年前にあった楽しいこと。入学式や卒業式や。もっと昔のこと。
 けど何も、何も思い出せない。
 ああ、せめて、せめて誰かが僕の名前を呼んでくれたら……
 自分は僕を知っている、そう名前を呼ぶことで、僕が確かに今ままでここに存在していたと示してくれたら。
 どれだけ、楽だろうか。

「ひが」

 その時、声が聞こえた。
「彼我」
 違う、誰かが呼んでいるわけじゃない。
 記憶の中で、誰かが僕の名前を呼んでいる。
 それはあくまで過去の記憶を再生、リプレイしているだけだけど。
 それでもよかった。
 誰かが僕の名前を呼んでいるという光景を、僕はうまく見つけ出すことができたのだ。
 これで僕は名前がわかる。名前からどんな存在であったかがわかる。
「彼我」
 可憐な声だった。強く張った高音が滑らかに空を切るようだ。遠くてもはっきり聞こえるビブラートのかからない伸びた声は、まるでガラスのように澄んだ印象を与える。
 そんな印象を沸かせる彼女が遠くから僕のことを呼んでいるのだ。
 そんな印象を抱かせる彼女はきっと僕の大切な人だと思う。
「彼我」
 待ってくれ、今そっちに行くから。
「彼我」
 名前を呼ばれるたびに記憶がよみがえる。
 そう僕は八歳で、彼女は十三歳だ。僕は彼女が大好きで、みんな彼女が大好きだ。
 そんな彼女が僕の名前を呼んで、僕を呼んでいる。
 こんなにうれしいことがあるだろうか。
「彼我」
 いかなくては、走っていかなくては。ここは冷える、あの子の元まで走ってそして、温かい家に帰ろう。
 そう僕は走る前に息を整えた、吸った空気が青臭さに満ちていて、風は乾いた土のにおいを運ぶ。
「待ってて、すぐに行く」
 ああ本当だ、すぐに行く、この靴ひもを結んだら。
「すぐに行く、このベルトを外したら」
 僕は顔を上げる、そこには緑が広がっていた、花があちこちに咲いている草原、その小高い丘に木が一本立っていた、とても大きい木、その陰から彼女の声がしているんだ。
「彼我、彼我、私ね」
 僕は走っていく、けれど体が何かに固定されているようで、全く動かない。
 何に? 僕の目にはそんなもの見えない
「まって、すぐ行くから。僕はすぐに君の元へ」
「わたし、わたしね」
「頼む、いかないで、もうすぐそこにいけるんだ。僕はいける、だから頼む、失望しないで」
「彼我、私ね、死んじゃうんだ」
 

 その時、僕はすべてを思い出していた。
 これは十年前の記憶。
 すべては彼女がいた時の記憶。
 僕は彼我、『岸本 彼我』
 夢破れた、単なる高校生だ。

 これは僕がまだ世界にいたころの物語。
 僕が希望をみつけ、絶望の淵から救われる、そんな僕の救いを描いた物語。

 

-SF・ファンタジー・ホラー

漂着のカルネアデス<全3話> 第1話第2話第3話

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