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幻影草双紙80〜恋の丸の内(中編)〜

   

 松本清張の『点と線』へのオマージュです。
 ミステリということではなく、時代の空気として、ですが。

 

 桜井修造は、驚いた。
 まさか、桔梗四郎の『恋の丸の内』が聞けるとは、思ってもいなかったのだ。

 この歌は、『有楽町で逢いましょう』のヒットに便乗して作られたものである。
 『有楽町で逢いましょう』が出てから数年後。
 あるレコード会社が、〈有楽町〉の次は〈丸の内〉だ、として作ったのだ。
 だが、柳の下に、もう泥鰌はいなかった。
 ほんの数ヶ月だけ巷に流れ、ほとんど話題にもならずに消えてしまったのである。
 ヒットチャートで、ベストテンに入ることもなかった。
 桔梗四郎という歌手も、その後、聞いたことがない。
 この曲のことを覚えている者は、ほとんどいないであろう。
 もちろん、〈懐メロ〉のCDに収録されることもない。
 よほどのマニアか、好事家、あるいは歴史家しか知らない歌である。

 しかしながら、桜井修造にとっては、思い出深い歌なのであった。
 彼の、青春時代の思い出を代表する歌なのである。
 その歌が発売された時期、彼自身も、歌の歌詞と同じような恋を体験したのだった。
 そして、生涯忘れられない歌になったのだ。
 さよう、生涯である――。
 桜井修造は、透明な心で考えた。
 生涯……。
 もうすぐ、区切りがつく……。

 桜井修造のそうした感情とは関係なく、アナウンサーは、淡々と言った。
「匿名さん、ご安心下さい。
 局のライブラリーに、ございました。
 レコードですので、ちょっとお聞きづらいかもしれませんが……。
 お聞かせしたい方がこの放送を聞いて下さるといいですね。
 では、『恋の丸の内』です」

 ラジオから前奏が流れ始めた。
 そして――、桔梗四郎の、少しく甲高い声が聞こえてきた。

 

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