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Xデーはある日突然やってくる

   2015年7月8日  

 
 諒は心治の想像を超える臆病な性格だった。
 話を持ちかけてもなかなか進まず、二者選択の決定さえも心治に託してしまう。
 こんな弱気な性格でピアニストなんて勤まるわけがない。
 そう思っていた心治の耳に届いた諒のピアノの実力は、心治の想像をはるかに超えるものだった。
 美沙子が罵声を浴びせる諒のピアノは、とても澄んだ美しいものだった。
 諒の実力を知るのに一日なんて必要なかった。
 圧倒的な彼のそれを知った心治は、行動に出始める。

 

 
 ホール内に漂う重苦しい空気を、心治はまるで無視して諒と今日と明日の業務スケジュールを提案した。
「演奏ですが、半日交替と一日交替、どちらがやりやすいですか?」
 こういうものも決定権は相手に委ねるに限る。
 人にはそれぞれに過ごしやすい時間が存在していて、後から入った人間は古株の人間のそれに従うのが世の流れというものだ。
 まして相手が自分に警戒心を持っているのならば、歯向かう意思も裏切る意図もないという意思表示にもなる。
 どう見ても饒舌ではない諒に全権を投げても話が進まないのは明らかだから、心治は質問を二択に絞りその決定権を諒に持たせた。
「えっと…、橘…さん?」
 ほんの数回しか言葉を交わしていないにも関わらず、すでに諒は心治に怯えてしまっていて、諒は子猫の鳴き声のような儚い声で心治に話しかけてきた。
「何でしょうか。」
 心治出来る限りの優しさを声に込めて、諒に問い返す。
 なぜすでに諒が自分に怯えきっているのか、皆目見当がつかず心治は内心唸り声をあげる。
 この時点で恐怖心が芽生えてしまっては話が前に進みづらい上に、諒のピアノの実力も把握するのも難しい。
 度を越した緊張は全身に余分な力を入れてしまい、思わぬミスをを招く。
 そうなると諒の実力を見るどころか、逆に諒を追い詰めてしまうことになりかねない。
 だから心治はとにかく優しく諒に話しかけ、心治本人は諒に微笑みかけたつもりにさえなった。
 実際は無表情のままだったが、常にポーカーフェイスであまり感情が前に出ない心治からしてみれば近年にまれにみる頑張りなのだ。
「僕…、半日でも一日でも交替のタイミングは大丈夫なので、橘さんが決めてください。」
 言葉を詰まらせながら、諒は心治に言った。
 心治は微笑んでいるつもりだが、やはり無表情なわけで。
 細身の諒から見た心治は、自分よりも背が高く筋肉質で、諒は心治の体の大きさと無表情の迫力にすっかり押されてしまっている。
 自分よりも体の大きな人間から見下ろされれば人間誰しも萎縮してしまうし、全く自信のない諒なら尚更である。
―なんで怯えてるんだ、こいつ。
 優しさを総動員させても怖がられてしまっては心治も打つ手がない。
「じゃあ半日交代にしましょう。午前中は俺が弾くので、午後は小野寺さんと交代で問題ありますか?」
 手を尽くしてもこれならば、どうしようもない。
 さっさと日程を決めてしまって諒を解放する方が得策だと心治は直感的に察して、話を前に進めた。
「大丈夫です。宜しくお願い致します。」
 諒はそう言って心治に深々と頭を下げた。
「こちらこそよろしく願いします。」
 心治も諒に頭を下げた。
 想像以上の怯えぶりに、先々の不安ばかりが心治の中に渦巻いた。
 こんな弱い精神状態でブライダルピアニストを一任していることが、疑問でしかなくて。
 心治は正直なところ全く信じられなかった。

 予定通り心治は午前中ブライダルピアニストを務めあげた。
 演奏の合間に何度か諒の様子を盗み見てみたが、諒は一度も笑顔を見せることはなかった。
 接客の際には笑顔を作っていたが、スタッフと話している現場すらも確認出来なかった。
 会話ではなく美沙子が諒に一方的に何かを畳みかけている場面ならば何度も目にしたが、諒はそれを聞き流しているようだった。
 諒に対する美沙子の嫌味は途切れないと工藤が言っていたが、その話は本当の様だとそれだけはしっかりと心治は把握できた。

 午後からは諒がピアニストで心治が雑務に回る。
 ピアノの前に座る諒。
 手をこすり合わせ、白鍵を指の腹でなでる。
 諒は見るからに緊張しているし、このままでは一音目からミスをするのが心治に痛いくらいに伝わってくる。
―大丈夫なのか、あいつ。
 心治は基本的に他人の心配なんて一切しないが、さすがに諒が心配になってきた。
 こんなにも身も心も緊張しきっていて、ミスをしないわけがない。
 ミスタッチを隠すのが上手な演奏をするのかと思考を巡らせていたら、諒の手が白鍵の上で停止した。
―いよいよか。最初は肝心だ。ミスするなよ。
 無意識に諒を応援する心治。
 自分の演奏では緊張なんて一切しないのに、諒の演奏前の今おなかがおかしくなりそうなくらいに心治は緊張していて。
 摩訶不思議な状況なのにもかかわらず、諒の演奏に心治は息を飲む。
 諒の指が白鍵に落ちる。
 そこから紡がれ始めたのは、心治が身構えていたミスタッチでも、緊張でがちがちに固まった音でもない。
 雑味の一切ない澄み切った音。
 心治は耳を疑った。
 想像を凌駕した美しさと繊細さ。
 工藤から事前に受け取っていた諒の個人情報を疑わずにはいられない。
 学歴を詐称しているに違いないとしか思えなかった。
 諒の奏でるピアノにただただ驚きながらも、表情は変わらないまま心治は隣に張り付いて一向に仕事をしない美沙子に心治は問いかけた。
「彼はどこの音大を出たんですか?」
 わかっている。
 諒は音楽大学を出ていない。
 大学どころか、音楽高校や専門学校の卒業でもない。
 それは心得ていたつもりだった。
 だがそれが事実なのか問わずにはいられないくらいに、諒の奏でるピアノは美しい。
 その辺の適当な大学生のレベルなんかではない。
 その演奏を嘲笑っていた美沙子は、心治の問いかけに目を丸くした。
「あの子は中卒よ、中卒!どこかの音楽高校に通ってたらしいけど中退したんですって。橘君とは比べ物にならない下品な音だこと。」
 そうなのだ。
 小野寺諒の最終学歴は、中学校卒業。
 美沙子は諒の演奏を見下し鼻で笑っているが、とてもそんなことが許せるレベルの音色ではない。
 心治が卒業した、音楽家ばかりを輩出している上園音楽大学院でもこんなに繊細な音を紡ぐ人間はそういない。
 音に若干の迷いと指の運び方が独特ではあるが、それを気にさせない音色の美しさに心治はただただ驚くばかりだった。
「上園を出た橘君とは天地の差ね。」
 美沙子の諒に対する罵声が、とにかく耳触りでならない。

 

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