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ノンジャンル

“後”と“先”

   2015年7月15日  

 業務終了後、ホールから足早に立ち去ろうとする諒を呼びとめた心治。
 そこで心治は自らの働くレストランへの引き抜きの話を持ちかける。
 しかし諒がそれにすんなり乗るはずもなく、自分の実力のなさ等からこの式場を安易にやめるようなことはできないと心治にかみつく。
 ここをやめたら“後がない”という諒と、うちに来れば“先がある”という心治。
 心治は場所をホールからスタッフルームに変えて、自らのトラウマや仲間にも心に傷があることを諒に告げた。
 饒舌ではない心治は、今一つ諒の反応に手応えを感じられないまま、諒に選択権を預けたのであった。

 

 
 一日の業務が終了し、スタッフ全員でホールの片づけ済ませて、ようやく一段落した頃。
 美沙子が腕組みをしてカツッ!カツッ!とゆっくりと大きな音を立てて靴を鳴らし、全員の目が自分に集まるようわざとホールの中央を肩で風を切りながら歩いていく。
 美沙子が向かったのは、グランドピアノの前。
 スタッフから漂う不穏な雰囲気。
 美沙子がグランドピアノの前から睨みつける先にいるのは、帰り支度をする諒の姿。
―何か言う気だな、あの女。
 ここで働いたのは今日初めてだが、それくらい心治にもわかる。
 ここで諒を美沙子に奪われるわけにはいかない。
 心治はこれから仕事に出向かなければならない上に、今日の報告も軽くでいいから仕事が始まる前にマスターに話しておきたい。
 だから心治は美沙子が無駄口を開くよりも一瞬早く手を打った。
「小野寺さんをお借りします。」
 美沙子に聞こえるよう比較的大きめの声で言って、心治は美沙子の口から言葉が出るのを無理やりねじ伏せて。
 いそいそとホールから退場しようとしている諒の背を追って、ホールの扉の前で心治は諒の細い腕を力任せに鷲掴みにした。
―!?
 心治は見た目以上のその細さに驚き、いきなり腕を掴まれた諒は心治の力の強さとその唐突さに目を丸くして心治の方を振り向いた。
 心治を見上げる諒の瞳はすでに怯えきっていて、心治の手の中にある諒の細い腕は小刻みに震えている。
「…なんですか?」
 まだ何も話していないのに、見るからに怯えきっている諒。
 回りくどい言い回しは逆効果だと思い、心治はいきなり本台を切り出した。
「今日一日、あんたのピアノを聴いていた。」
 何の気なしに切り出したこの言葉にすら、諒はビクリと肩を震わせる。
 いったいどんな扱いを受ければここまで臆病になってしまうんだと、心治は疑問を抱かざるを得ない。
 心治を見上げる諒の目は、完全に恐ろしいものを見る色一色に染まっていて。
 諒の目を見る心治の心が痛んだ。
「小野寺。」
 もう怖がらせたくない一心で、心治は低く安定感と温かみのある声で諒を呼ぶ。
「はい…。」
 誰が聞いてもわかるくらいの温かさがこもる心治の声にすら、諒の小さな心臓はこれでもかと言わんばかりに強くかけ足に脈打っていて。
 もうこんな姿は見るに堪えないと、心治は諒に言い放った。

「ここを辞めて、俺の働くレストランでピアニストをしてほしい。」

 ホールスタッフの誰もが予想だにしなかった心治の持ちかけに、ホール内の空気が一瞬止まった。
 それに構わず心治は続けて話す。
「実はここのオーナーとうちのレストランのオーナーが知り合いで、あんたのことを常々聞いていた。“腕利きのピアニストがいるが、ここにいては駄目になる。うちのレストランで雇ってもらえんだろうか”と相談を受けていて、本人の腕次第だということで話をしていた。今日一日でその答えが出た。」
 ざっくりとした経緯を話すも、あまりに唐突な心治の話に諒の口はぽかんと情けなく開いてしまっていて。
 諒の脳内キャパシティを凌駕した状態なのは見てすぐにわかる。
 こんな顔も出来るのかと心治は内心ほっとした矢先。
「ちょっと…、待って橘君!」
 止まった空気を突き破ったのは美沙子のいら立ちに満ちたかな切り声だった。
 心治は諒から美沙子に視線を移せば、やはり美沙子はがつがつと食らいついてきた。
「その子の学歴を忘れたの?ちゅうそ」
「学歴と才能は別問題だ。」
 怒りに満ちた心治の声に、美沙子は話を遮断されたにもかかわらず文句が言えず、逆に息を飲んだ。
「あんたリリア音楽女学院を出たらしいが、実績はどうなんだ。ピアノに向かおうともせず小野寺にえらそうなことばかり言うなら、あんたがピアニストを務めろよ。」
 ピアノを弾く素振りを一切見せななかった美沙子。
 その実力の底を、心治は見抜いていた。
 美沙子に集まるスタッフからの不信のまなざし。
 無言のまま美沙子は下唇をかみしめ、悔しげな表情で地面を睨むばかりである。
 美沙子を黙らせ、心治は諒に視線を戻した。
「小野寺。」
 心治は諒に声をかけると、諒はまた小さく肩を震わせた。
「うちに来ないか?」
 心治の声に、僅かだが熱がこもる。
 このまま諒が“はい”と答えてくれれば話は早い。
 そう簡単にいかないとわかっていても、願わずにはいられなかった。
 少し間が空いて、諒の重い口が開く。
「美沙子さんも言ってたでしょ?僕は中卒です。貴方とは生きる次元が違いすぎます。」
 そう来るとは思っていた。
 しかしこの予想は裏切ってほしかったと、心治は心底思う。
「最終学歴云々の話をしているんじゃない。これは強制ではないが引き抜きだ。悪いようにはしない。」
「そんなわけない!」
 諒からいきなり大きな声が上がった。
 ホール内にいる心治以外の全員に緊張が走る。
「貴方が俺にどんな幻想を抱いているのか知りませんが、俺は専門的な勉強はしていません。大学はおろか、高校すら出ていない。知識も技術も素人同然の俺が、貴方みたいな人が勤めているレストランでピアノを弾くだなんておこがましいことはできません。いざ雇われて見当違いだったなんて理由でクビを切られたら、俺は生きていけない!俺はピアノしかないんだ!ここを辞めて危険なはしごを渡るようなまねはできない!俺には“後”がないんだ…!」
 今までのおとなしさが嘘のように、心治にかみつく諒。
 怒りに満ちたそれは、まるで狼が牙をむいたかのようだった。
 諒の放った、“後”がないという言葉。
 それはズンと心治の心の中に鉛の様に重くのしかかった。
「…場所を変えよう。ここじゃ話が進まない。」
 心治はそういうなり、諒の腕を掴んだまま強引にホールから出た。
 ホール内の雰囲気は二人がいた時のまま、しばらく動きだすことはなかった。

 

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