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“ここにくれば先がある”

   2015年7月22日  

 
 諒をレストランで働くよう説得するも、諒の反応から全く手ごたえを感じられなかった心治。
 車に乗り込むと、あまりの手応えのなさにため息しか出なかった。
 職場の営業開始時間に遅刻してしまい、急いでホールに入りマスターの元に向かうと、マスターは心治を咎めることなく迎え入れたのだった。
 営業終了後に掃除をしながら心治はカウンターにいるマスターに今日のことを報告していた。
 話せば話すほど曇っていく心治の表情。
 諒の説得が難航したといっていたが、心治はとにかく自らの非力さを責めた。
 その心治を救ったのは、ムードメーカーの大和だった。
 大和につられて無意識に励まされる心治。
 その様子とスタッフの雰囲気を感じ、マスターは未だ見に諒に
“ここにくれば先がある”
 ことを知ってほいしいを心底思うのだった。

 

 
 手荷物を助手席に乗せて、運転席に座りこんでその勢いのまま一気にカーナビのセットまで済ませて。
 カーナビをセットしてシートベルトをかけて、ここで初めて心治は深く長い溜息をついた。
 今日のことで思うことがたくさんある。
 諒にかけた言葉を別の言い方にしていればレストランで働くことに合意してくれていたかもしれないと自分の語彙力になさを情けなく思い、もっと諒が親しみやすい物腰で接することはできなかったのだろうかと自らの態度を戒めた。
 冷静になった今だからこそ、猛烈に後悔している。
 後ろ向きな事ばかり考えていても、過ぎたことは戻ってこない。
 心治は自らにそう言い聞かせ、エンジンをかけて式場を後にした。

 カーナビの到着予定時刻はレストランの開業時間よりもかなり早く到着できる予定が出されていて、もちろん心治もその予定でいた。
 しかし予定は未定という言葉がこの世には存在している。
 心治が実際レストランに到着したのは、営業時間を二十分過ぎた頃だった。
 急いで駐車場に車を止めて着替えを済ませてホールに入ると、すでにホール内は予約客で満席に近い状態になっていて。
 いつものようにカウンターでワイングラスを磨くマスターの元に、心治は小走りで駆け寄った。
「遅れてすみませんでした。」
 二十分もの遅刻は心治からすると土下座に切腹ものの大罪である。
 客がいる手前深々と頭を下げるわけにもいかず、とにかく謝罪の言葉しか述べられない。
 心治の声に誘われて、マスターが心治の方をむいて彼を見上げてニコリと微笑んだ。
「大丈夫だよ。道が混んでたんだね。時間的にもそうだし。気にしないでください。」
 マスターの優しさが今の心治の心には堪える。
 どうせなら厨房にでも呼びつけられて盛大に怒鳴られた方が気が楽だ。
 マスターの微笑みにからは、仕事が終わってからゆっくり話そうという持ちかけがあることを心治は感じ取って、ほんの少し目を泳がせた。
「…すみませんでした。」
 この人には敵わない。
 心治は心底そう思い、一度だけ頭を下げて持ち場に着いた。
 持ち場に向かう心治の背を眺め、マスターは頬が綻ぶ。
 二年前ここに来たばかりの心治だったら、間違いなくこの場で遅刻の経緯を事細かに全て説明していただろう。
 今は場の空気を読み取り、それを腹の底にぐっと抑え込むことができるようになったのだ。
 心治の成長が、マスターは素直に嬉しかった。

 仕事は大きなトラブルもなく終了した。
 ホール内清掃に差し掛かると、カウンターの片づけをしているマスターの元に心治が足を運んだ。
「丁度声をかけようと思ってました。さすが勘が鋭いね、橘君。」
 そう言って、マスターは心治を見上げて微笑む。
「今日は遅れてすみませんでした。もっと早く到着できる予定でしたが、道に迷ってしまいました。」
 表情こそ変わらないが、心治の気持ちはひしひしと伝わってくる。
 心治はとにかく生真面目だから、僅かなミスでも自らを厳しく咎めることを、マスターは心得ている。
 マスター自身基本的に時間にはとても厳しいが、心治に関しては叱らなくても深く反省していることは重々承知しているから咎めることはない。
 心治だけは例外である。
 それよりも話さなければならないことはほかにある。
「遅刻に件はもう気にしないでください。それよりも小野寺君はどうでしたか?」
 マスターは心治にカウンター拭き用の台拭きを手渡し、本題に入る。
 心治は布巾を手に取るとり、深いため息をついた。
「…腕前は確かでした。ミスタッチも少なく、とても繊細な音色でその辺の音大卒業者よりも数段レベルは上です。」
 ため息とは裏腹の心治の高評価にマスターは目を丸くした。
 いつも誰よりも辛口の評価しか出さない心治が、こんなにも誰かの演奏を褒めることは今まで一度もなかったから、純粋に驚いたのだ。
「ただ…。」
 心治の眉間に一気に皺が寄る。
 言葉に詰まった心治にマスターは視線を向けた。
「…ただ?」
 どんな問題が生じたのだろうかと、一瞬にして考え付くだけの事例がマスターの脳内にいくつか上がる。
 演奏技術が申し分なかったのなら問題なのは性格面であろうこは、容易に想像がつく。
 心治が納得するほどの腕前とくれば、やはりどこか傲慢なのだろうかと若さゆえのそれを覚悟した。
 すると心治の口からは想像していなかった答えが返ってきた。
「とにかく臆病で…。話がまともに進みませんでした。」
 見る見るうちに曇っていく心治の表情から察するに、想像以上に話が難航してのだろうとマスターは感じ取った。
「そんなに臆病だったんですか?」
 相手から怖がられて後悔している心治は、二年間の付き合いで初めて見る。
 心治は基本的に無表情だから、初対面の人間は大概警戒してしまう。
 それは心治本人も了承済みで、今までこんなに後悔しているところは見たことがない。
「俺と視線があっただけで目が泳いでました。それだけなら未だしも、声をかければ肩がビクついて、演奏前にはがちがちに緊張していて…。どうしてあの緊張ぶりで一音目にミスしなかったのか不思議なくらいです。小野寺本人から全体的に自信が感じられなかったし、出口のないトンネルの中をライトなしで歩いているような不安定さしか感じられなかった。正直な話、俺の話が小野寺に染み込んだ手応えは全くしませんでした。」
 普段決して口数が多い方ではない心治がここまで一気にしゃべることは、非常に珍しい。
 それほどまでに今日のアプローチがうまくいかなかったのだろうと思うと、マスターはほんの少し心苦しく思う。
 心治は真面目だから、今日の諒の反応に今後の展望が見えないことが不安なのだろう。
 こんな時安易に大丈夫だとか何とかなるだとかという声かけは、かえって逆効果である。
 それはマスターも心得ていることだから。
「こちらで働いてほしいという旨は伝えたんですか?」
 マスターは心治が今日、諒にどこまで話を持ちかけたのかという確認をすると、心治は重い口を開いた。

 

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