幻創文芸文庫 (β)

小説好きの創作小説を無料配信*スマホ対応

ノンジャンル

理由

   2015年7月29日  

 
 レストランから帰宅後、心治は数年ぶりに練習が手に付かずビールとさきいかを片手にベランダに出た。
 今日のことに思うことはたくさんあった。
 しかし翌朝、和彩からのメールに心治は勇気をもらう。
 翌日心治は工藤に諒の自信のなさの理由を問いかけると、工藤は諒の過去を語り始めた。
 工藤が諒を幸せにしたい理由。
 諒が工藤の結婚式場にこだわり続ける理由。
 全てを知った心治は、今日諒を口説き落とす決意をしたのだった。
 
 

 

 
 心治は帰宅後、珍しく練習がほとんど手に着かなかった。
 約一時間粘ったがリズムに乗れず集中できなくて数年ぶりに練習を投げだしてパーカーを着て台所に向かった。
 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、食器棚からさきいかを加えてベランダに出た。
 ベランダに出ると同時に夜風が心治の顔をなでていく。
 風がほんの少し肌寒い。
 パーカーを着ていて正解だった。
 フェンスに両肘をつきながらビールのタブを引くと、なんとも心地のいい音を立てて開いてくれた。
 夜空を見上げれば満天の星空。
 それを仰ぎながら、心治は加えたさきいかを手に取りビールを一口のどに流し込んだ。
 酒はあまり飲まないが、どれだけ飲んでも酔っぱらうことはない。
 今みたいに口に広がる苦みと強炭酸ののど越しを楽しむ程度である。
「はぁ…。」
 ビールの苦みと炭酸の残すのどの痛み。
 今日の経験に酷似したそれに、ため息をこぼさずにはいられない。
 おもむろにさきいかを咥えれば、ビールの苦みとさきいかの旨味が口の中で絶妙に混ざり合う。
―─明日の小野寺の答えもこうなればいいが…。
 苦みの後の旨味のように事が進んでくれたらいいのにだなんて、虫が良すぎるとわかっていても思わざるを得なかった。

 翌朝起床して、ベッドに寝転んだまま携帯電話の電源を入れると和彩からメールが入っていた。
「なんだ…?」
 メールなんてほとんどしないはずの和彩からのメールに、心治は素直に驚き身支度をしながら内容を確認する。
『当たって砕けるくらいの気持ちで行きなさい!誰も心治君を責めたりなんてしないから!』
 和彩らしいパンチの利いた内容に、心治は思わずプッと小さく噴き出した。
 それと同時に今まで心に立ちこめていた黒い霧が晴れていき、心治も珍しく和彩に返信した。
『今から砕けてくる。』
 朝食を済ませて身支度をして靴を履いて。
 外の快晴と同じように晴れっきた気持ちで、心治は家を出た。

 今日は迷うことなく式場にたどりつき、工藤に次いで二番目に早く到着することができた。
 昨日と同じ場所に車を停めて下車すると、屋内から工藤が姿を現し、心治は工藤に深く一度頭を下げた。

 屋内で心治と工藤は昨日のことを話しながら支度を済ませ、二人揃ってホールに入った。
「工藤さん、失礼な質問をしてもいいですか?」
 心治は失礼を承知で自らの心の中にある諒への引っかかりを問う。
「なんだ?」
 心治からの質問に、工藤は心治に視線を向けた。
「小野寺はどうしてここのピアニストにこだわるんですか?」
 諒は怒鳴りながら“ここを辞めて危険な梯子を渡るような真似は出来ない!”と啖呵を切ったそれが、心治の中ではどうしても引っかかっていた。
「小野寺ほどの腕があれば、仮にここを強制的に辞めさせられたとしても、雇い口はあるはずです。小野寺自身が全く自分に自信が持てないのは見てわかりますが、どうしてあんなに過剰に自らの実力を過小評価するのかわかりません。工藤さんがおっしゃっていた通り、斎藤美沙子からの陰湿な虐めがあったとしても、それだけの理由であれだけの自信のなさになったとは考えられなくて。答えられないことでしたら無理に答えていただかなくても」
 心治の声を遮り、工藤は心治のトンッと肩に手を置いた。
 工藤の様子から何かあるのは心治にも容易に見当がつく。
「小野寺の自信のなさは、ここに来るまでに数えきれない数のアルバイトを解雇になったからなんだ。」
 工藤はそう切り出し、諒の過去を語り始めた。

 諒は高校を中退して働かなければならない理由があった。
 それは諒の一つ年上の彼女との間に子どもが出来たことと、彼女を自分の手で幸せにしたいというものだった。
 高校中退、中学卒業が最終学歴となると、正規雇用は難しい。
 細身の諒はとび職のような体力勝負の仕事は体格的に不可能だった。
 だから諒は一日をフル活用して数多くのアルバイトを掛け持ちしていた。
 だが諒の対人スキルは高くはなく、元々優しすぎる性格で少し変りもの気質だからバイト先ではいじられキャラで、要領も悪いから職場に馴染めず最終的には責任者からクビを切られ続けていたらしい。
 不景気のご時世、中卒者を正規雇用する企業はなく、待遇も悪かった。
 生きるため、家族を養うため、どんなアルバイトでも諒は手あたり次第やりつくしたと言う。

 諒の両親からの援助は一切なく、諒の妻は両親が他界しており頼れる肉親はいなかった。
 唯一繋がりはあったのは諒のピアノの先生だった諒の祖母だが、諒は極力祖母には頼らず、自分の手で家族を幸せにしようと毎日必死に働いた。
 その最中、妻は無事に男女の双子の赤ちゃんを出産した。
 当時の諒は多忙を極めていて寝る時間なんてほとんどなかったが、それでもとても幸せだった。
 しかしその幸せは一年と経たずに崩れた。
 妻が倒れたのだ。
 スキルス性の胃がんで、発見した時には既に手の施しようがなかった。
 医師からの余命宣告は一カ月だったらしいが、がん発見後の最初の一時帰宅で眠るように息を引き取った。

 それからしばらくして諒は祖母の伝で工藤の経営する結婚式場のピアニストとなった。
 ピアニストになってからの三年間は、駆け抜けるように過ぎて行った。
 ピアノの技術で諒の右に出る者はいなかったが、それ以外の業務は全く話にならなかった。
 使えないの一言に尽きる。
 気は効かないしもの覚えは悪いし雑務はミスの連続で、ここの来るまでにことごとくアルバイトをクビになっていたのにも納得せざるを得なかった。
 ピアノ以外の仕事を頼むと失敗続きで、一日が終わるころには諒本人が誰よりもがっくりと肩を落としていて。
 その落ち込みようがあまりにも酷くて、見るに見かねた工藤は諒に諭した。
「胸を張れ!お前にはピアノがあるだろう!」
 苦し紛れとも取れる工藤の励ましの一言は、諒に輝きを与え僅かな自信さえも持たせたのだった。

 

-ノンジャンル
-, , , , , , , , , ,


コメントを残す

おすすめ作品

妬みの歯車 #1

1985年、僕らは…… 3通目

不思議なオカルト研究部 第七話 廃屋の人形 前編

迷い人に孫の手を<1>

南関東文科大学 タイムカプセル発掘隊 第二話 教授選への「ダシコミ」(中)