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返答

   2015年8月4日  

 
 スタッフ内で一番早く来るはずの諒。
 心治は諒を待ち続けるが、時間ばかりが過ぎていき他のスタッフが揃う中、肝心の諒は姿を現さない。
 休まれては話にならないと、心治と工藤が焦り始めた時。
 一番最後に諒が姿を現した。
 泣き腫らしたまま姿を現した諒に怯む工藤。
 諒に容赦なく距離を詰めていく心治。
 目の前に現れた心治を見上げる諒の瞳は、いつになくまっすぐだった。

 諒が出した返答。

 それが諒の幸福につながることを願う工藤。

 諒の奏でるリストの愛の夢を聴きながら、工藤はホールの片隅で声を押し殺して泣いたのだった。

 

 
 心治と工藤は諒をいかに口説き落とすかの作戦会議を済ませて、後は諒を待つばかりとなった。
 諒が今日ここを旅立つに当たっての書類整理をすべく、工藤はホールから出ていき心治は一人となった。
 心治の心にもう迷いはない。
 何としても諒をピアノフォルテに連れて帰る気持ちが固まり、心治は諒の登場に備えて大きな深呼吸をした。
 朝の静けさの中にこだまするスズメの小さなさえずりが、ただひたすらに清々しい。
 大きな窓から差し込む金色の太陽光は、ホール全体に神々しさを醸し出している。
 その光の中に鎮座する、まだ物言わぬグランドピアノ。
 諒が奏でた曲が、心治の脳裏によみがえる。
 それはもう素晴らしいものだった。
 あの音が潰されるのはやはり耐えられない。
 心地のいい諒のピアノは、聴く者に安らぎを与える不思議な魅力にあふれている。
 それに思いをはせていたら。

“ガチャ…”

 背を向けていたホールの扉が開いた。

―来たか…。

 心治はそっと扉の方を振り向く。
 扉の隙間から現れたのは、残念ながら待ち人とは別の人物だった。
「おはようございます~!」
 猫なで声のそれを聞いて、心治はあからさまにがっくりと肩を落とした。
 諒を待っていての美沙子の登場は、心治に多大な精神的ダメ―シを与えたのだ。
 昨日美沙子の話を相手にも伝わるように嫌々聞いているという雰囲気を醸し出しながら聞き流していた心治だが、それでも懲りていない美沙子には朝からげんなりせざるを得ない。
 昨日のことが全く効いていないとわかる、心治に媚びる笑顔と声。
 美沙子のそれを目の当たりにして、心治はため息をつくほかなかった。

 美沙子は心治にぴったりと体を密着させて、学生時代の自分がもてていたというどうでもいい武勇伝と得意な作曲家の話をひたすら心治に語り明かしていた。
 ショパンのエチュード、リストの超絶技巧練習曲、ベートーベンのソナタ…。
 どれも難曲に分類されるものばかりを並べて、あまり難しくなかったと言ってのける美沙子。
 技術自慢なんかに興味はない心治は、諒の到着をまだかまだかと待ち焦がれていた。
 しかしなかなか諒は姿を現さない。
 時間が過ぎていくごとにホールにスタッフが増えていく。
 毎日一番に来るはずの諒は、気づけば一番最後になっていて。
 スタッフ達がホール内で忙しく準備をし、それを手伝う心治に美沙子は相変わらず密着して喋り通しままなわけで、心治は美沙子の話をきれいに全て聞き流していた。

 準備が終わっても諒は現れず、美沙子の腕前自慢も終わらない。
 心治は他のスタッフと話していようが、美沙子は関係なく喋り通していた。
 美沙子には申し訳ないが、他人の自慢話なんかに興味はない。
 今心治が聞きたいのは、美沙子の話ではなく諒の返答なのだ。
 自慢や前評判なんてあってないようなもの。
 心治自身が幼いころからピアノに携わり、様々なコンクールに出場して賞を取っていく過程で身に着いた“実力至上主義”。
 性格的にも他人の話なんかに興味を抱かない。
 全てに対して厳しいからこそ、心治の目は曇らない。
 美沙子の話に適当に相槌を打ちながら、心治はいかにして諒を頷かせるかということばかりに思考をフル回転させていた。

 下準備が終わる頃、オーナーの工藤がホールに入ってきた。
 心治は美沙子に、オーナーと大事な話があるからその場から一歩足りとも近づかないでほしいと言い残し、工藤の元に駆け寄った。
 心治がこちらに向かってくる間に、工藤は腕時計に視線を落とす。
 本来ならば一番に来ているはずの諒なのに、時間を確認すればあと十五分で朝礼開始である。

―まさか今日休む気か…!?

 駆け寄った心治と工藤の脳裏に浮かんだ、諒がこの場から逃げ出す最終手段。
 これをされてしまっては、いくら工藤の立場がオーナーという強い立場にあっても、いくら心治の頭が速く回転しても諒本人が現れてくれなければどうしようもないのだ。
 今浮かんだことが最終手段だとしても、諒が今日それを実行しないという保証はない。
 そうなれば話が大きく変わる。
 工藤と心治は最悪の事態を想定しつつ、自分の元にきた心治に工藤は耳打ちをした。
「書類等の準備は全て終わらせてきた。」
 工藤の仕事の速さに、心治は驚きつつも頭を下げた。
「有難うございます。」
 心治は顔をあげてホールの掛け時計に視線を移す。
 朝礼まであと十分強しかない。
 諒からの連絡はないかと、工藤はポケットの携帯電話を恐る恐る確認する。
 しかし諒からの連絡はない。
 安心したような、しかし諒の安否が不安なような、何とも言い難い時間が過ぎていった。

 

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