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明日の光

   2015年8月11日  

 ブライダルピアニスト最終日もいつも通り滞りなく勤め上げ、諒は工藤の経営する結婚式場を卒業することになった。
 本当ならば笑顔で今までの礼を告げなければならないのに、諒にはそれが出来る自信がなく、一旦退室しようとしたとき工藤から呼び止められた。
 工藤から諒へ四年間の礼が告げられて。
 その先の言葉は、決別を告げるものではなく、諒の背を押すものだった。
 工藤の温かで深い懐に、諒は工藤の前で今までで一番人間らしく感情をむき出しにして大声で泣いたのだった。

 

 
 諒の勤務最終日も滞りなく無事に終了した。
 いつも通りにホールの掃除も終わらせて、諒は誰より早くホールの扉に手をかけた。

―…。

 いつもなら美沙子から呼び止められてお小言を聞かされるのに、今日はそれがない。
 鬱陶しいと思っていたのに妙な寂しさが、諒の中に込み上げてくる。
 本日付で四年間勤めたこの式場とはさよならになる。
 初めて正規雇用してもらって、初めて四年間も同じ職場にとどめてもらって。
 ここは諒にとってあまりに思い入れが深すぎる。
 本当ならば笑ってさよならを言わなければならないのに、それができそうにない。
 だから一旦ホールから出ようとした。
「小野寺!」
 諒の背中を工藤の声が捕まえる。
 呼び止められて、諒の体は金縛りにでもあったかのように身動きが取れなくなった。
 諒の肩に駆け寄ってきた工藤の手がポンと乗る。
 振り向きたいのに、諒自身の意志では体が身動き一つとってくれない。
 工藤には計り知れない恩がある。
 振り向いて頭を下げて礼を言い、一人前になったらこの式場に遊びに来てもいいか聞きたい。
 そう思っているのに、体はピクリとも動いてくれず言葉すらも全く出なかった。
「こっちを向いてくれるか?」
 今の状況では諒が自らの意思で体が動かせないと、工藤は分かっている。
 工藤の指示にはすんなり体が動いてくれて、言われるがまま振り向く。
 そこには工藤の後ろに横一列に並んだ仲間と、工藤がいた。
「四年間、ありがとう。」
 工藤の笑顔は、今にも泣きだしそうだった。
 返したい言葉はたくさんあるのに、ありすぎて考えられず言葉はおろか諒の口からはかすれ声すらも出ない。
「この四年で、君は大きく成長した。もうここでなくても立派に働いていける。君のピアノの実力は本物なんだから、もっと胸を張りなさい。」
 工藤の言葉が、諒の真っ暗で深いところに落ちていく。
 諒自身さえも知らなかった自分の体のどこかに存在する深い暗闇。
 そこに工藤からかけられた言葉たちが呑み込まれていくのを、諒は感覚で受け取った。
「あちらのレストランのマスターはとても優しい方だ。君の実力ならきっとうまくやっていけるから、心配はいらない。私は常連客だから、たまにレストランに行くから…。」
 工藤の言葉が途切れた。
 先ほどまでの笑顔は、工藤からは消えていた。
「…だからその、」
 泣かずに送り出すはずだったのに、工藤の瞳から大粒の涙があふれてくる。
 諒は息をすることさえ出来ずにいた。
 誰かが自分のために涙を流すということに、諒自身ついていけていない。
 その上その涙を流しているのが、迷惑ばかりかけた工藤なのである。
 自分が辞めて工藤も肩の荷が下りるだろうと、諒はそう信じてやまなかった。
 しかしそうではないのだという事実に、諒は置いていかれている。
「何か困ったことがあったら…、」
 あふれる涙を握って、工藤は諒に歩み寄る。

 そして、諒をそっと抱きしめた。

「何か困ったことがあったら、いつでもここに戻ってきなさい。君には帰る場所と迎え入れてくれる仲間がいることを、どうか忘れないでほしい。」
 工藤の声を聞いていると、四年間の出来事が諒の脳裏に走馬灯のように駆けて行った。
 楽しいことばかりではなかったはずなのに、思い出すこと全てが愛おしくて楽しかった記憶しかない。
 諒は今になって工藤と離れるのがどうしようもなく怖くなって、工藤の背中に腕をまわして力いっぱい工藤にしがみついた。
「今までありがとう。」
 工藤の言葉の先にある、決別の言葉。
 それを言われてしまったら、もうここには戻れない気がした。
 だから諒はどうしてもそれが聞きたくなくて、工藤の背中の服の布をギュッと握りしめた。
 お願いだからさよならなんていわないでと、諒は言葉にできない思いを服を握った握りこぶしに込めることしかできない。
 工藤は諒の背中を優しくなでた。
 安心しなさいと、その温かで大きな手が諒をなだめる。

「行っておいで、諒。君は広い世界を見るべきだ。」

 引っこんだはずの諒の涙。
 それが諒の意志とは関係なく、頬を伝い工藤の肩に優しい雨を降らせる。

「…いって、きます。」

 四年間。
 長いようで短かったその期間。
 どこかよそよそしかった諒だったが、今一番人間らしく感情をむき出しに大声で泣いていて。
 諒の人間臭いそれに触れたれたことが、工藤にとっては何よりの喜びだった。

 

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