幻創文芸文庫 (β)

小説好きの創作小説を無料配信*スマホ対応

ノンジャンル

初仕事

   2015年9月8日  

 ついに諒がピアノフォルテで仕事を始めることとなった。
 ランチタイムから仕事が開始であるが、仕事が始まる前からとにかく緊張し通しでマスターもコックでマスターの息子の明広もその緊張具合に心配せずにはいられないほどに酷く緊張してしまっている諒。
 前日に指導係だと言われた飛由はランチタイムはこないと聞いて、諒の中には不安が増す。
 飛由の代わりに心治が指導に入ったが、いざ仕事が始まってみると諒は心治から全く離れず、他のスタッフから出された指示に俊敏に対応が出来ずとにかく心治に助けを求める視線を送る始末。
 それにしびれを切らした和彩は、ランチタイム終了後に、諒をテーブル席に呼び話をし始めたのだった。

 

 
 その日は面接に諒に子どもたちが押し掛けるハプニングに見舞われたものの、本来の意味合いとは違う意味でいい機会になった。
 面接の後は店で解散し、各々店内から散って行った。

 そして迎えた月曜日のランチタイム前。
 昨日にマスターから教わった集合時間の三十分前に諒は店に到着した。
 従業員用の勝手口から店内に入ると、目の前にはすでにキッチンスタッフとマスターが制服で廊下を歩いている。
 この店一の筋肉質で逆三角形の体格と高身長のコックと細身でコックよりも頭一つ半ほど背の低いマスターの背中に、諒は戸惑いながらも思い切って声をかけた。
「お、お早う御座います!」
 緊張のあまり若干震え気味の諒の声に誘われて、二人は振り返ってよく似た笑顔を諒に向けて手を挙げた。
「おはようございます、小野寺君。」
「おはよう、諒!」
 体格こそ正反対ではあるが、二人の雰囲気は親子なだけあって本当によく似ている。
 筋骨隆々のコックである越智田明広も、趣味で楽器を触ると土曜日言っていたことを諒はぼんやりと思いだした。

 二人に手招かれて、諒は雑談に加わった。
 加わったというものの、諒は極度の緊張で一言も声を発さずに控室まで歩いた。
 諒と控室前で別れ、二人は厨房へと向かい、そこで明広は低い唸り声をあげた。
「あんながちがちに緊張してて、大丈夫か? あいつ。」
 諒の緊張の仕方を見れば誰だってそう思うし、明広の心配も当然のものである。
「今の時点では何とも言えないね。橘君曰く、式場で働いていた時も最初から最後まで緊張しっぱなしだったみたいだから。工藤さんは小野寺君にピアニスト以外の業務は単独でやらせなかったと仰っていた。なんでも他の業務を一人でさせると、とにかくミスが多いらしい。」
 マスターは腕組みをして、明広に今自分が持っている諒の情報を伝えることしかできない。
 こんな時憶測を述べるのはナンセンスである。
 こうなるのではないだろうかという想像はしていても、それを口に出してこの場で二人でやり取りをしたところで全く何も起こらない。
 無意味である。
 それを心得ているから、二人は諒のことをこれ以上無駄に語り合うことはない。
「ま、とりあえずランチで様子見だな。ランチは飛由不在だから、代わりの指導は誰が入るんだ?」
 明広からの問いかけに、マスターは小首を傾げた。
「橘君じゃないかな…。小野寺君が今一番信頼を置いてるのは橘君だろうからね。」
 いつもながらマスターの返答があまりにもスタッフ任せで、明広はジワリと笑いが込み上げてくる。
「“じゃないかな”って…。父さんらしい。」
「いつものことでしょう。」
 スタッフへの厚い信頼から来る無責任さに、明広はまた小さく笑いが込み上げるのだった。

 ホールスタッフの誰よりも早く制服を身にまとい、諒はホール内の掃除を済ませてテーブル席のセッティングをしていたら、心治がホールに入ってきた。
「おはよう。早いな。」
 心治の声に諒はびくっと肩を震わせ、急いで心治の方を振り向いて勢いよく頭を下げた。
「お、お早う御座いますっ!」
 相変わらずの諒のガチガチ緊張スタイルに、心治は諒はこんなにまで緊張しっぱなしで疲れないのだろうかと疑問を抱かずにはいられないが、今それを言ってもどうしようもない。
 とにかく伝えなければならないことを伝えることにした。
「飛由はランチは不在だから指導には俺が入る。心配するな。出来ることを俺と一緒にすればいい。」
 式場での業務経験のある心治だからこそわかることがある。
 諒に一人で何かやらせたら、必ず何かしらのミスをしていた。
 工藤から使用済みの皿をキッチンに運ぶように言われて、その時皿をかなり派手に割っていたのをよく覚えている。
 諒が単独で仕事をしているのを見たのは、二日間でそれが最初で最後だった。
 皿を割った単独業務以外では、工藤の業務を一緒に手伝っていた。
 昨日諒自ら言っていた通り、筋金入りのドジであるには事実である。
 自覚があるから、伸びしろはあるのだ。
「わ、わかりました! 宜しくお願い致します!」
 一瞬諒が酷く戸惑ったように見えたが、それでも深く頭を下げる諒の背中を心治は優しくトンと叩いたのだった。

 ホールに飛由を除く四名のホールスタッフとキッチンスタッフ四名が揃って、全員がホールに集合して業務開始前にマスターから少し話があった。
 全員でマスターの話を聞いたわけだが、それの耳を傾けられるほどの心のゆとりは諒にはなかったのだった。

 

-ノンジャンル
-, , , , , , , , , ,


コメントを残す

おすすめ作品