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ノンジャンル

大丈夫

   2015年9月29日  

 飛由はその可能性を見出しているから、諒の自発的な行動をサポートすることにした。
 開店前にドアの鍵を開けることをおぼえていても、そこでしてしまうかもしれない自らのミスに怯えて身動きがとれない諒。
 飛由は諒に、ミスをしてもここのスタッフは諒を見捨てないという旨の話をした。
 それでも自信のない諒に、諒自身の出来る力と冷めきった体と心に飛由は温かな言葉をかけ、諒は知らず知らずのうちに涙を流していた。

 ディナータイムが目前まで差し迫り、マスターからスタッフに声かけがありホール内に心地のいい緊張感が生まれる。
 いよいよディナータイムの開始時刻となった。
 

 

 
 ホールスタッフ全員がホールに揃い、ディナータイム開始五分前となった。
 そろそろ店のドアの鍵を開ける時間である。
 飛由はその話を諒に持ちかけようとして隣を見ると、諒が妙にそわそわしていた。
「どうかしましたか?」
 多分ドアの鍵のことが、諒の頭の中を渦巻いている。
 何となくの想像はつくが、ここで先手先手を取って“鍵のことですか?”と諒の問いかけては意味がない。
 それをしてしまうと諒が自分の考えを口に出す機会を奪ってしまう。
 それにもしかしたら違う理由かもしれない。
 もしもドアの鍵のことで落ち着きがないのならば、その確認も必要である。
 覚えていることを行動に移すことは、諒にとってはかなり勇気が必要な事なのかもしれない。
 それに、“覚えること”は“繰り返し”の賜物でもある。
 これはどんなことにも精通している事実。
 大体の見当は付いているが、飛由は諒に“確認”の意味合いを込めて問いかけた。
 これで諒がドアの鍵のことを覚えていれば、ランチでのことは決して無駄ではないことの証明になるし、一回で覚えられるのだから何もできない人間なんかじゃない証明にもなる。
 覚えていなければまた教えればいいのだから、なんの問題もない。

 飛由がそう考察していると、諒がおずおずと口を開いた。
「…あの、ドアの、か…鍵を、開けてきてもいいでしょうか…?」
 目の泳ぎ方と震える声色で諒に自信がないのはすぐにわかる。
 しかし諒は“全く何もできない”という訳ではないのだ。
 ランチの時に和彩から出された指示を、今の時点で覚えていて実行しようとしているのが何よりの証拠である。
「鍵ですか? 一緒に開けに行きましょう! どなたに教えてもらったんですか?」
 にっこりと微笑み、飛由は諒をリードしながらドアの方に向かって歩き始めた。
「ラ、ランチの時に…、和彩さんが教えてくださいました…。」
 和彩とのことを思い出して諒の声がだんだん小さくなっていく。
「カズさんはクールで美人だからツンとしてるように見えますが、バイオリンがとても上手で優しい方です。ただ言い方が少しきついかな…? カズさんに悪気はないし、男前な方ですよ。」
 和彩について語りながら、飛由は諒を誘導する。
「とてもはきはきしてらっしゃいますよね、和彩さん。…僕、ランチの時に和彩さんを怒らせてしまって…。」
 やはりランチでのことを、諒は引き摺っていた。
 引き摺るというよりも、過去のトラウマが怒られるということを諒の脳に鮮明に残しやすいのではないかと飛由は感じた。
「仲直りしたんですよね? ここではそれでいいんです。ミスをしても、誰かがサポートしてくれます。ここは“すみません”の後に、“ありがとうございます”って言える職場なんです。もし諒さんがミスをしても、必ず誰かが助けてくれます。だから一日一つ、無理ならば一週間に一つでも新しいことにチャレンジしてみましょうね!」
 飛由の言葉に、諒はひたすらキョトンとしていた。

 今まではミスをすれば笑い者にされ、陰口の対象になっていた。
 それが原因で職場内で爪弾きにあうなんて日常茶飯事だったから、ミスをするのは諒にとっては脅威である。
 だから一人で行動がとれない。
 ミスに対する恐怖心が諒に緊張を生み、そしてまたミスを呼んでしまう。
 そのミスを咎められ笑われ、悪口を言われての負の連鎖が、確実に諒の心に深い傷を生んで未だに渦巻いている。
 飛由はそれを何となく感覚的に察し、困惑の表情で目を泳がせる諒を見守っている。
「僕一人で行動して何かミスをしてしまったら、みなさんにもお客様にも多大なご迷惑をかけてしまいます。」
 ドアの鍵を開けながら、諒の声がだんだんと小さくなっていく。
 諒が手にかけたドアの鍵もなかなか開かない。
 次第に焦り始めた諒の手を、飛由がそっと握った。
「焦らないで。わからないと思ったら、すぐに助けを呼んでください。わからないって思ったことが、ついさっき教えてもらったことでもかまいません。諒さんが“わからない”って思ったら、誰でもいいから聞いてみてください。ここの人たちは同じことでも何度だって教えてくれます。」
 そう言って、飛由はゆっくりとドアの鍵を開けた。
 カチャリと小さな音を立てて鍵が開いて、諒は飛由にお礼を言おうと彼の方を向いた。
 すると飛由と諒の視線がばっちりあって、飛由はにっこりと微笑み諒に告げた。

「ピアノフォルテの人は、諒さんの“敵”じゃないです。大丈夫、心配しないで。貴方を見捨てる人は、ここにはだれ一人いません。みんな諒さんが持っている“出来る力”を感じ取っています。」

 そう言って、飛由は諒の手をぎゅっと握った。
 凍りついた諒の手に飛由の体温が伝わって、ほんのり温かくなる。
「僕が、出来る力を持ってるだなんて…、」
「持ってるんです! できます!」
「いやでも…、僕が何かしたら逆に皆さんにご迷惑をかけてしま、」
「しまいません! 諒さんはできるんです!」
「…でも、」
「大丈夫! 大丈夫だから心配しないでください! 不安を少し捨てる努力をして、捨てた不安の代わりにほんの少し勇気を持ちましょ? みんなを信じてください! 叱られることはあっても、嫌われることはありません!」
 飛由の言葉にどんどん押されてしまって、諒は何と返せばいいのかわからなくなり言葉を詰まらせた。
「ね? 信じましょ? ここのスタッフも、自分の可能性も。どんなに不器用でも、何もできない人間なんて一人もいないんです。」
 飛由の言ったことが、じんわりと諒の中に染み込んでくる。

 

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