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楽譜と音源

   2015年10月27日  

 和彩の提案で翌日に持ち越された曲目決定だったが、諒の一風変わった選曲センスに皆言葉を失う。
 これではいけないと全員で話し合い曲目を決定したまではいいが、そこで諒が自分の楽譜を一曲を除いて所持していないことが判明する。
 子どもを養うため、自らの楽譜を手放した諒。
 その独特の練習方法ととんでもない手持ち曲の数に、皆言葉を失った。
 こんなに頑張っている諒をこのままにはしておけず、心治は諒に楽譜の提供を持ち掛けた。
 しかし万が一何かあったら取り返しがつかないと、諒はそれには応じない。
 ならば諒の練習方法に合わせようと、心治はある案を持ち掛けた。
 心治の迷惑になるのではと慌てふためく諒。
 心治からの持ち掛けだからと、飛由が諒を諭して二人は練習会の約束をしたのだった。

 

 
 和彩の案で翌日までに選曲はしたのだが、諒の独創的すぎる選曲センスにスタッフ一同なんと声をかければいいかわからなかった。
 誕生日に客に送るクラシック曲だと前置きをしていたのに、どうしてドビュッシーの花火が諒の選択肢に上がったのだろうか。
 諒の脳内で一体何が起こったのかわからないが、選曲の全てを任せきりにしていたらとんでもない事態になることは容易に想像がつく。
 諒本人に全く悪気はなく、それこそ睡眠時間を削って一生懸命選曲したのだが、この選曲にどんな不備があったかわからずただただ慌てふためくばかりだった。
「大丈夫、お前は悪くないさ。ただ選曲がハイセンス過ぎるから、それを一般人向けに選び直すってだけの話だ。お前はそのまま変わらないでいた方がいいし、その個性は必ずいい方向に成長するから。」
 大和からのなんとも言えない慰めの言葉を真に受け、諒は安心しきってほっと肩から力が抜けた。

 選曲は演奏依頼を受けた週のうちに決定し、残りの約三週間で曲を仕上げることになった。
 だがそれに伴い、ある問題が浮上した。
 それは選曲が決定した日の、業務終了後のこと。
 いつも通り掃除をしていた時に事件は起こった。
「あの…、ひ、飛由さん…。」
 いまだ緊張感が一切抜けない諒の声と表情。
「はい? どうしましたか?」
 諒の緊張を丸ごと包み込む、飛由のゆったりとした口調と優しい微笑み。
 自分の方を振り向いた飛由のそれに、諒の心が少しだけ軽くなる。
「さっきの曲、うちにあるDVDに録画されているものがないんですが、動画サイトにはあの曲の動画はあると思いますか?」
 諒の言った言葉に、全員耳を疑わざるを得なかった。
 全員の視線が一気に諒へと集まる。
「楽譜は持ってないのか? かなり有名な曲だぞ。」
 心治は諒に即座に問いかけた。
 いきなり人の演奏を聴くのは、心治としてはいただけない。
 曲を一曲、それもお客様のために奏でるとあれば自分で楽譜を見て曲を研究し、理解度を深めたうえで提供すべきである。
「僕は…、リストの愛の夢のピアノピース以外の楽譜を持っていないんです…。」
 諒の返答に、ホール内の空気が凍り付く。
「じゃあ今までどうやって練習してきたの? 誰かの演奏の物真似をしていたの?」
 不穏な空気の中、和彩はあくまで冷静に諒に問いかけた。
 返答内容によっては、諒の根性を叩き直さなければならない。
 顔色こそ変わっていないが、和彩は内心かなり焦りを感じている。
 もし万が一諒の回答が筋の通らないものだったとしたら、今からの三週間でどうやって指導し、期限までに曲を完成させるかを練らなければならない。
 そう考えていると、諒は恐る恐るその詳細を語り始めた。
「僕はピアノの音源と指が動いている動画があれば、それをじっくり観察しているとそのうち弾けるようになります。学生時代は教科書も楽譜も手元にありましたが、生活費に足しにするために売りました。当時の僕は、もうピアノは弾かないと思っていました。もともととても忘れっぽい上に座学が苦手で、実技なしの文字のみで学んだ曲はすぐに忘れてしまいます。工藤さんの式場でブライダルピアニストとして働かせてい頂いていましたが、自分の楽譜にお金をかけるのが怖くて。そのお金を子どもの食費に充てていて、そうしているうちに今の練習法が定着してしまって…。」
 諒の言っていることの全てを、今この場で受け止めることは難しい。
 しかし諒が嘘をつくとも思えない。
 そもそもこの根っからの小心者の男が、これだけの人数相手にいきなり饒舌な作り話をするなんてありえない。
 そうなれば諒の言っていることは真実となるのだが、疑問がわかないわけがない。
「ってことは、最初から曲を丸暗記するってことか?」
 こんな時遠慮せずに疑問に思ったことを相手にぶつけるメンタルの強さは、このレストランでは大和が群を抜いている。
 大和からの質問に、諒はあっさりと頷いた。
「そうです。覚えられる曲は一応いつでも弾けるようにしています。僕は物覚えも要領も悪いから、手持ち曲だけは多くしているつもりです。」
 諒の指す“多目”。
 それがどれくらいの量になるのか。
 それが飛由以外の人間が抱いた次の疑問点である。
“多目”という大まかな括りをそれぞれ想像する中、花本とのやり取りの場に居合わせた飛由は若干の恐怖心を抱き始めていた。
 花本に選曲権を譲った時点で、度の外れた曲数を抱えていることは容易に想像できる。
「手持ち曲を教えてもらってもいいですか?」
 飛由からの問いかけに、諒は小さな唸り声を上げて手持ち曲を指折り数えながら上げ始めた。
「モーツァルトのソナタ全曲と…。」
 最初のそれに、全員度肝を抜かれた。
 モーツァルトのソナタは流れがすべて似通っている上に、ソナタ一曲がどれも三十分ほどあり仮にも簡単なものではない。
 それを全曲手持ちとしている時点で、怪物レベルである。
 簡単な話が、辞書の丸暗記のようなものだ。
 しかしこれで終わるわけもなく、諒は後の曲をすべて上げていった。
「ベートーヴェンの四大ソナタと、ショパンのノクターンとマズルカとワルツ、エチュードを全曲。あと舟歌。リストの愛の夢第三番、クライスラーの愛の喜び、エルガーの愛の挨拶、ブラームスの愛のワルツ…。シューマンの子どもの情景、ドビュッシーの子どもの領分と前奏曲集全曲、ラヴェルの鏡とソナチネに水の戯れ。サティの金の粉と本日休演とお前がほしい…、位だったと思います。たぶん…。」

 

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