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ノンジャンル

天才

   2015年11月11日  

 昼食を終え練習を再開した心治と諒。
 心治の演奏後に自分も演奏するという諒には、尋常ではない集中力があることを心治は感じていた。
 そして心治と立ち位置を変えた諒がピアノに向かい演奏を始め、心治のこれまでの常識の概念が全て覆ることになる。

 

 
 昼食を摂り終えてみんなで食器を片付け、全員揃ってピアノの部屋へと戻った。
 午前中と同様に心治がピアノの前に座り、指慣らしを始める。
 まだ温度のこもらない、心治の指先から鳴るピアノの音階たち。
 それが鳴り響く部屋の中で、子どもたちはピアノの脇で神経衰弱を始めた。
「心治さん。」
 心治の背に諒は低い声をかける。
 その声のトーンは今までに聞いたことはない落ちつきようで、初めて聞くその声色に心治は漠然的な恐怖を覚えた。
「なんだ?」
 心治は指慣らしをしながらゆっくりと振り返ると、ただひたすらに真っすぐ自分を見つめる諒がいた。
 諒の真っすぐで深い漆黒の瞳に心治は引き込まれそうになり、うっと息を詰まらせる。
「一度心治さんが弾いた後、僕が弾きます。ミスがないかチェックをお願いします。」
 そう語る諒の中には、自信とは別の何かが確実に存在している。
 それは諒自身の声色と表情が雄弁の物語っているのを、心治は全身で感じていた。
 諒がまとっているもの。
 それはおそらく、尋常ではない集中力。
 芸術家という特殊な人種の中には、その集中力を爆発的に携えている者がいる。
 心治自身も今までに数人その類の人間を見てきたが、諒からは明らかにその匂いがかなり強烈に漂ってきている。
「…わかった。」
 心治は一言だけ言葉を返た。
 この手の芸術家の凄味は、時として人間の常識の範疇を超えてくるところである。
 それが毎回とは限らないにしても、それでも想像を超えた何かを作り出してくることは確実。
 忘れかけていた心治の中の何かが、じわじわと熱くなっていく。
 その正体を探りたいところだが、今はそれをしている場合ではない。
 自らの心にじわりと湧く好奇心を無理やりねじ伏せ、心治は心を無にしてピアノに集中力を注ぐ。
 ──しっかりしろ、俺。
 毎日の習慣となっている指慣らしは、心治の心を置いて勝手に音階を辿っていく。
 いつぶりだろうか。
 勝手に動いていく自らの指が、無性に薄情に見えてならなかった。

 
 少し長めに指慣らしをして心を落ち着かせ、一度思い切り背伸びをして心治は鍵盤に視線を落とした。
 先ほどと変わらないモノクロのそれ。
 常日頃から平常心を崩さない心治だが、今はピアノからの無言の重圧に少し押されている。
 ──緊張してるのか。…らしくもなく。
 こんな時でさえ、心治は自らを客観視して自分の中の他人行儀な自分がそれを軽くあざ笑う。
 自分の演奏の後に待ち構える諒の演奏。
 それがとにかく楽しみなのに、どこか恐怖している。
 心治の指先が、僅かに震える。
 曲そのものは、そう難しくはない。
 そう言えるのは心治の基礎技術が非常に高いからなのだが、それはおそらく諒にも同じことが言えよう。
 心治にはわかる。
 諒は学歴や知識を超えた、“何か”を持っている。
 そして心治自身は諒の持つ“何か”を、どれほど熱望しても手に入れることはできない。
「弾くぞ。」
 そっと心治は諒の告げて、勢いよく鍵盤に指を躍らせ始めた。

 心治の指も動きはとてもなめらかで上品で、非の打ち所がない。
 手の大きさも申し分なく、男性特有の力強さに加えて音の奥底に野心のような野性的なものをくすぶらせている。
 心治の奏でるピアノを聴き指の動きを見つめる諒の細い指先が、宙で心治の指の動きと同じ動きを辿っている。
 心治の視界に入らないそれと同時に、諒は小さな声をこぼしていて。
 ──鼻唄…?
 諒から流れてくる若干音のずれたそれに、心治は耳を傾けるのだった。

 

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