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迷い人に孫の手を3<1>

   

 柳瀬薫の日常は平凡で、平坦に過ぎて行くはずだった。

 人と出会い、触れ合って得た、新たな彼の生活は緩やかにその速度を増していく。
 
 迷い人に孫の手を3。第一話と相成ります。

 どうぞご堪能下さいませ。

○抜粋○

「おう、柳瀬よ。起きてるか」
「寝ていませんよ」

 古びた道場内に、燐とした空気と緊張感が漂っていた。

 板の間の冷たさを尻で感じながら、僕は道場の真ん中で、なぜか座禅を組んでいる。瞼の向こうから、木が軋む音、路上を走るバイクの音、鳥の囀りが聞こえる。周囲は音に満ちていた。

 木造の匂い、トクさんの足が道場の床を踏み締める。数多の感覚の中、トクさんとの出会いの偶然性を考える。今後の日常、まずは今日の行動予定を考える。

 座禅中だというのに、本当に雑念だらけだなあ、と僕は自分を、まるで他人事のように『見』つめていた。

○○○

 

 
「おう、柳瀬よ。起きてるか」
「寝ていませんよ」

 古びた道場内に、燐とした空気が漂っていた。

 板の間の冷たさを尻で感じながら、僕は道場の真ん中で、なぜか座禅を組んでいる。瞼の向こうから、木が軋む音や路上を走るバイクの音、鳥の囀りが聞こえてくる。周囲は音に満ちていた。

 木造の匂い、トクさんの足が道場の床を踏み締める。数多の感覚の中、トクさんとの出会いの偶然性を考える。今後の日常、まずは今日の行動予定を考える。

 座禅中だというのに、本当に雑念だらけだなあ、と僕は自分を、まるで他人事のように『見』つめていた。

 僕の後方には、この道場の主である徳野安二郎ことトクさんが居る。見えてはいないけれど、今、トクさんは後ろ側に居る。

 素足が床を踏み締める音がする。手にした棒を、トクさんは円を描くように振り回している。微かな風の音はそこから起こっている。
 ひゅん、ふん。瞼を閉じてなお、長さ6尺の均等の太さの棒が、トクさんの手の中で前後左右に振り回されているのを感じる。窓から吹き込む微風が、道場内を過ぎていく。

「……っふ」

 トクさんの呼吸と足音は微かだった。「凄く見たいです」「型通りに振っとるだけだぞ?」と返すトクさんの声が想像通りの方向から返ってくる。距離は思っていたより、少し近い。

 見たいなあ。瞼を開けようともせず、そんな雑念が浮かんで堪らない。

 トクさんの気配を前方に感じて、背を正して瞼を固く閉じる。どうやら移動したらしいけれど足音はしなかった。瞼の裏に、鷹のような雰囲気を持つトクさんの姿が映る。もちろん錯覚で、けれど瞼を閉じてなお、老人の持つ存在感は尋常じゃない。

「少しは動いたらどうだ? 面白くねぇな?」
「動くなと言ったのは誰ですか」

 会話しながら、それでも僕は瞼を閉じている。座禅を初めて三十分ほど経っただろうか。暇潰しだと称してさせられている座禅は、思いの外気持ちが良い。

 座禅そのものは懐かしくも、幼少の頃に経験済みだった。そのせいか心が酷く落ち着いているのが今だ。トクさんが終わりと言うまで瞼を閉じて沈黙に徹するのは、昔を思い出して楽しい。何分くらいするのだろうか。雑念も何もかも適当に流して、今を感じる。それが僕が得ている座禅で、雑念を消す方法なんて知らない。

 ただ座禅しろ。

 それが今の課題で、僕はただ黙ってそれをしている。いつ終わるんだろうか。そんな雑念も生まれて、座禅を早く終わらせたいわけじゃない、自分ののんびりとした感覚は、子供の頃と違うなと思った。

 そんな土曜日の朝。

 前髪が靡いて空気が揺れる。風を切る音がする。トクさんの棒が振られ、振る音が聞こえる程に近づかれている事に気付く。

 トクさん宅の離れにある道場は、瞼を閉じてなお感じる程に、眩い朝日の光に満ちていた。

 

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