幻創文芸文庫 (β)

小説好きの創作小説を無料配信*スマホ対応

ノンジャンル

追いたかった背中

   2015年12月9日  

 諒の衝撃発言に一同唖然とする中、諒と誠の間には親子の関係に大きな溝があることのみが事実として浮き彫りになった。
 諒のことはさておき、誠は速斗に自らが教鞭をとる有名音楽大学への入学を勧めてくる。
 しかし速斗は音楽大学に進学する気はないと、何度目かもわからない断りの返事を誠に告げるのだった。

 その背景には、マスターの知り合いで速斗と深いつながりを持つ男が関係している。
 彼を追いたかった過去と、追わないと決めた今。
 追いたいと思う気持ち。
 彼から自由な音楽を薦められた速斗の気持ちは、大きく揺れながらにしてどうしていいのかわからない状態にあるのだった。

 

 
 諒の口から飛び出した衝撃の事実に、ホール内にいるスタッフ全員の表情がポカンと情けない状態で固まってしまった。
 今目の前にたたずむ、速斗を大学に勧誘しに来たこの男。
 彼が上園音楽学園に在籍するピアノ科講師であることは、皆承知している。
 基本的に引き抜きはしない上園音楽大学だが、こうして引き抜きをしているのもまた事実。
 心治も高校生だった頃に、彼の引き抜きによって上園音楽大学に進学した一人だった。
「待ってください、先生。」
 重苦しい店内の空気を切り裂いた、心治の一声。
 男を睨む諒を除く全員の視線が心治に集まる。
「先生の苗字は浅井ですよね?」
 諒の苗字は小野寺である。
 それを考えると一気に状況がこんがらがっていく。
「ああ。俺は婿入りして苗字が小野寺になった。結婚した時にはすでに教鞭を執っていたから、いちいち苗字を変えたことを公表するのが面倒だった。学校では浅井誠(あさいまこと)で通っているが、本名は小野寺誠だ。うちは妻の方が名が知れているから、苗字が変わると色々と面倒だったんでね。諒の母親の名前は小野寺礼(おのでられい)。ちょっと名の知れた音楽で食っていってるおばさんだよ。なあ、諒。」
 小野寺礼。
 彼女の名を聞いて、スタッフ一同動揺を隠せなかった。
 それもそうだ。
 小野寺礼はクラシック音楽をかじっている人間ならば、知らない人間がいないと言っても過言ではない。
 数々のコンクールで優秀な成績を修めている、世界的に有名なピアニストである。
 誠の言った“ちょっと名の知れた音楽で食っていってるおばさんだ”だなんて次元の人間ではない。
 そして人間の心理上、礼と諒が親子関係だと聞いてしまったからだろう諒が礼とどことなく雰囲気が似ているようにさえ思える。
「お前が家を出て以来だが、生きてたみたいで何よりだ。あの時の子どもも、無事に生まれてればそれなりに大きくなったんだろうな。会いたいもんだ。」
「会わせる予定はない。堕胎しろなんて言った人間に会わせるか。」
 初めて垣間見る諒の怒りに満ちた表情。
 今の会話と雰囲気から察するに、家を出て以降の連絡のやり取りはなかったようだ。
「俺の大切な子どもだ。今更会いたいだなんて虫が良すぎるだろ。堕胎させて子どもの存在をなかったことにしようとしたことを水に流すとでも思ったのか? 時間が解決するだなんて、そんな生易しい問題じゃないことくらいわかるだろ。」
 諒の言い分はわかる。
 腹が立っても仕方のない事だろう。
 しかし妊娠が発覚した当初、諒たちは高校生だった。
 仮にも大人として十分な人生経験を積んだ年齢とは言い難いし、経済力もない。
 何より二人の年齢が、これから先の未来が十分に期待できる年齢だった。
 今勉学から離脱してまで、是が非でも育児に専念しなければならないというわけではないのではないだろうか。
 子どもを養うということは、口で言うほど簡単ではない。
 子どもが小さければ小さいほど手間も金もかかる。
 それを何とかできるとは、当時の二人からは見受けられなかった。
 だから堕胎を勧めた。
 しかし二人がそれに応じることはなかった。
 二人の将来を思って持ち出した堕胎だったが、その時の誠はあまりにも淡々とその話をしてしまった。
 無表情に近かったそれに、諒は誠の親心を見出すことはできず、堕胎という言葉の衝撃と無機質に耳に届いた言葉は諒の中に強いショックを与えてしまった。

 それは心の傷という形で諒の中に残ってしまい、今に至る。
「水に流せなんて言わないさ。言ったことはもう戻らない。俺の言ったことを、そのままよく覚えておけ。お前も親の端くれなら、俺の気持ちがわかる日が来るだろう。」
 今にも噛みつきそうな諒の視線をものともせず、誠は諒に諭して諒から速斗に視線を移した。
「今日はお前と昔話に花を咲かせに来たんじゃないんだ。もっと大事な話をしに来た。」
 誠は諒に背を向けて、カウンターの隅の観葉植物の影に隠れるようして立っていた速斗の方へと歩き始めた。
 誠から逃げようと、速斗は無意識に後ずさりしたが、二歩下がったら壁にかかとが当たってしまい、早々に逃げ場を失った。

 

-ノンジャンル
-, , , , , , , , , ,


コメントを残す

おすすめ作品

tripper!

野獣は眠らない

幻影草双紙10〜既視感〜

南関東文科大学 タイムカプセル発掘隊 エピローグ(完)

1985年、僕らは…… 3通目