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歴史・時代

大正恋夢譚 〜雪柳〜 <前>

   

「どうした少年、そんな暗い顔をして。若い身空で、身投げでもないだろう?」
先生は僕の横に立つと、胸ポケットから煙草を取り出して、ゆっくりと紫煙をくゆらせた。

小説版『東京探偵小町』外伝
―内山倫太郎&永原朱門―

Illustration:Dite

 

 僕が先生に――名探偵・永原朱門に出会ったのは、今からもう四年も前のことになる。
 その年の、まだ正月の松も取れないうちに、先生は愛する家族を上海に移した。「探偵」という、危険と隣合わせの仕事を生業としている先生は、家族の安全を守るために、日本で一人暮らしをすることにしたのだ。既に探偵として功成り名を遂げた先生を、敵視する者が増えてきたからだと聞いている。
 移住先は、先生の奥さんの出身地である上海だった。
 先生の奥さんは上海屈指のジャズシンガーで、揚梅心という名は、当時まだ子供だった僕でさえ、良く知っているくらいだった。
 上海にいれば、奥さんは自由に仕事ができる。
 三人の子供たちも、帝都を凌駕する国際都市に身を置けば、より多くの経験を積むことができると考えたのだろう。

 こうして先生は、京橋にあった本宅を処分し、麹町の九段坂下に新事務所を構えて、日本と上海とを往復する暮らしを始めた。新事務所はもともと町医者の自宅兼医院で、改装が済むまでの仮住まいには、本郷の下宿屋を選んでいる。
 そうした移転の手続きに半月ほど要し、再び上海へ渡ろうとしたのが、二月の十日過ぎ。家族と共に、春節こと旧正月を過ごすためだった。
 僕と先生が出会ったのは、その上海行きの船上だった。

 忘れもしない、あの日。

 出港の時刻が目前に迫り、乗客たちの浮かれ華やいだ空気が一段と色濃くなるなかで――僕は冷たい北風に吹かれながら、港の景色を見つめていた。
(もう二度と、この風景を目にすることはできないんだろうな)
 すべてがぼんやりと霞んでいるのは、霧のせいなのか、それとも涙のせいなのか。判別はつかなかったけれど、涙のせいだとは思いたくなかった。こんなことで泣くのは、僕の誇りが許さなかった。

 僕の生家である内山家の本家はいわゆる「士族」で、世が世なら、藩の重臣にもなろうかという家柄だった。次男だった父は若い頃に分籍して平民になったけれど、士族の出であることに誇りを持ち、僕にもそう教えた。
 そんな父が慣れぬ事業に手を出したのは、僕が中学校に上がってすぐの頃だった。結局それは失敗に終わり、落胆した父がみずから命を絶ってからというもの、家運は瞬く間に衰えた。ついに親戚や知人からも見放され、絶縁を告げられると、豊かだった暮らしは一転してどん底にまで落ちた。乳母日傘で育った母は、心労を重ねた挙句、父の後を追うようにして世を去っている。
 こうして僕は、わずか半年足らずのうちに、天涯孤独の身になってしまったのだ。
 父母に守られて育ち、何も知らなかった僕にとって、世間の風は想像以上に冷たかった。十五歳になったばかりの僕は、父が残した莫大な借金を背負い、途方に暮れるしかなかったのだ。

 

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