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歴史・時代

大正恋夢譚 〜雪柳〜 <後>

   

「ありがとうございます。でも先生、道源寺警部とのお約束は」
「取り立てて急ぐ用でもないのだ。明日に延ばしてくれるよう、電報を打ってきた」

小説版『東京探偵小町』外伝
―内山倫太郎&永原朱門―

Illustration:Dite

 

 よりによって、こんな中途半端な季節に風邪を引くなんて。
 自室の寝台に臥せったまま、僕は左脇に挟んだ体温計を少し気にしながら、ゆるく目を閉じた。熱のためなのか、こうしてまぶたを伏せると、目の奥が刺すように痛む。
(そう言えば、初めてかもしれない)
 帝都にその人ありと謳われる、名探偵・永原朱門の助手になって四年。こんなふうに風邪を引いて寝込むのは、思えば初めてのことだった。
(桜も散ってからの風邪か……情けないな)
 今年は年明け早々から事件や調査の依頼が舞い込み、仕事に忙殺される日々が続いたけれど、体調を崩すようなことだけはなかった。それなのに、春もなかばのこの時期になって、こんな高熱を出してしまうとは。
 自己管理の至らなさを反省しながら、僕は目を開け、自室の白い天井を見つめた。
 良く晴れた、うららかな春の日の午後だった。
 窓の外には浅黄色の空が広がり、日増しに緑を濃くしていく庭木の枝には、小鳥たちが遊びに来ている。九段坂沿いに敷設された外濠線からは電車の走る音が聞こえ、路地を行く物売りの声も、今日は一段と良く通る。それらが遠ざかると、室内に、痛いほどの静寂が満ちた。
 この「九段坂探偵事務所」は、普段は呆れるほど人の出入りが多い。それこそ盆暮れ正月などお構いなしに来客があり、いつも事務室や居間に、依頼人や警察関係者の姿がある。それが今日に限って、こんなに静かなのはなぜだろう――――。
 熱のためにぼんやりする頭で、とりとめのないことを考える。
 やがて、扉の向こうに聞きなれた足音が近づいてきた。

 先生が帰ってきた。

 そう思うだけで、ひどく安心した気分になるのは、季節はずれの風邪のせいだろうか。
「倫太郎、具合はどうだね」
 軽いノックのあと、静かに扉が開く。
 道源寺警部との約束があると言っていたから、帰りはもっと遅くなると思っていたのに、先生は出掛けてから一時間も経たないうちに戻ってきた。仕事はどうしたんだろうと気になりながらも、こんなに早く帰ってきてくれたことが、単純に嬉しかった。
「大丈夫です。たいしたことはありませんから」
「熱は?」
「いま計っているところです」
 返事をしながら、体温計を脇から引き抜く。
 すると、結果を確かめる前に先生の手が伸びてきて、僕の手から体温計をさらっていった。
「三十八度七分。これのどこが、『たいしたことはない』と?」
「すみません…………」
「やはり、戻ってきて正解だったな」

 

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