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ノンジャンル

話はそれから

   2016年1月20日  

 諒人のピアノの音色に癒される速斗。
 その諒人と諒のやり取りを目の当たりにして、幼いころの自分と兄とのやり取りがかぶって見えて、兄への想いが涙となって溢れてきたのだった。

 夕方小野寺家を後にして、兄仁斗に電話をかけ浅井からスカウトされている話をすると仁斗は浅井に腹を立てながらも動き始めたのだった。

 

 
 速斗の指先の震えは治まらず、諒人が力強くぎゅっと握りしめたところで事態が変わるものではない。
「お兄ちゃんのおてて、プルプルしてるから僕が弾いてあげる。」
 諒人はピアノの椅子に座っている速斗を見上げて、ニコリと微笑んだ。
 諒人の笑顔は諒と雰囲気が似ているためか、母性や父性をくすぐる。
 諒人はどこか頼りなくて、強い口調で何か言ってしまえば途端に泣き出してしまうことは容易に想像がつく。
「じゃあお言葉に甘えようか。」
 速斗の返答に、諒人は目をキラキラと輝かせ意気揚々とどこかへ走っていき、気が付くとどこからか補助ペダルの台を全身で押してきていた。
 諒人は諒と似て細身な上に、身長も小ぶりである。
 その小さな体を目いっぱい使って補助ペダルを設置し、速斗と席を代わって椅子に腰かけて手首をプラプラと宙に踊らせる。
「どんな曲が弾けるのかな?」
 こんなに小さいのにペダルを使うのかと、速斗の表情は何もせずとも勝手に緩む。
 自分にもこんな時代が存在していたのかと、疑問に思わずにはいられない。
 そう思うくらいに、速斗の目に諒人は幼く映った。
「えっとね、この前パパが弾いてた曲! こ…、こー、何とかのツ!」
 “こ”と“ツ”しかわからない。
 諒人があまりにもかわいくて、速斗は思わず笑ってしまった。
「俺も知ってる曲かな。」
 口ではそう言ってみたが、実際はどんな曲でも構わない。
 諒人がピアノを弾いてくれるだけで、今の速斗の心は多大な癒しを得るのは明らかな事実だから。
「どうかな…。わかんないから弾くね!」
 諒人の指先がおもむろに白鍵の上に乗っかり。
 その小さな手と未発達の短い指で、鼻唄でもうかうかのように諒人の指が美しいトリルを奏で始めた。

 ショパン作曲
 子犬のワルツ

 速斗が想像していた、子どもが弾くであろうかわいらしい曲ではなかった。
 タッチ、速度ともに正確で、諒人の年齢を考慮すると子犬のワルツを弾きこなすのはかなりハイレベルである。
 しかし速斗を引き付けたのは、諒人の音色だった。
 視覚的にも聴覚的にも、諒人は今音楽をとにかく楽しんでいる。
 表現することの楽しさと、ピアノが弾けることへの純粋な喜びに満ち満ちている。
 いつから見失ってしまったのだろう。
 今の自分にはないそれを諒人は確実に持っている。
 なんて心地のいい音楽なんだと、速斗は何の抵抗もなく諒人の音楽にどっぷりとひたりこんだ。
 ほんの三分の演奏は、言わずもがな速斗の心をいやしたのだった。

 演奏しきった諒人は、小さな息をついてサッと速斗の方を向いた。
「一か所間違えちゃった。」
 諒人は速斗に自己申告したものの、音はノーミスだったため速斗はキョトンとするほかない。
 小学一年生とは思えない、安定感抜群の演奏のどこに不備があったのか速斗には皆目見当がつかなかった。
「指使い間違ったんでしょ?」
 ソファに腰かけて演奏を聴いていた笑里の指摘に、諒人は恥ずかしそうにもじもじしながら頷いた。
 指番号の違いなんて聞き分けられる人間が存在しているのかと唖然としているところに、諒がお盆にサンドイッチと牛乳を乗せて部屋に入ってきた。
「あっくん、右手の指番号一か所間違ったでしょ?」
 開口一番諒のはなったそれに、速斗はただひたすら驚くばかりで。

 ──この人たちの聴力、どうなってんの。

 若干恐怖心を抱かずにはいられなかった。

 呆然としてしまっている速斗を無視して、諒はソファにお盆を置いて折り畳み式簡易テーブルを広げ始めた。
「楽譜見なきゃダメでしょ?」
 優しく諭すも、諒人は膨れるばかり。
「だって聴くだけで弾けちゃうんだもん。」
 言っていることは結構なものだが、それが当然なのだから諒人は諒に言い返すのだ。
「あっくんはパパみたいに、楽譜見ないでも何でも弾けるようになりたいの!」
 そう言われてしまうと無下にできないのが親というものである。
 諒は困ったような笑顔を諒人に向けるばかりだった。
 二人のやり取りを見ていると、速斗の中に懐かしさが込み上げてくる。
 まるで幼い日の自分と仁斗のやり取りのようだった。
「お兄ちゃんどうしたの?」
 笑里の声掛けでハッとした時には、速斗の意志とは関係なく涙がこぼれていた。
「…あれ? 何泣いてんだろ…。おかしいな…。」
 最初こそ笑顔を取り繕っていたが、速斗の我慢が限界を迎えるのにそう時間はいらなかった。

「兄さんに…、会いたい…。」

 今までため込んでいたものが溢れてくる。

 ──仁君…!

 速斗が一番疎遠になりたくなかった人。
 諒と諒人のやり取りを見ていると、どうしようもなく兄が恋しくなったのだった。

 

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