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ラブストーリー

大正恋夢譚 〜秋桜〜 <3>

   

それでもわたしは、恋をしてみたいのだ。
死ぬ前に、本当の恋に出会ってみたいのだ。
そしてその者にこそ、わたしを屠る、死神の役を割り当てて。
この穢れた魂に、断罪の大鎌を振り下ろしてもらいたいのだ。

小説版『東京探偵小町』外伝
―御祇島時雨&ニュアージュ―

Illustration:Dite

 

 ささやかな見舞いの品を携えて香澄のもとを訪れたのは、翌週の火曜だった。
 長尾家での仏蘭西語の指導は、週に二度。
 火曜の午後は長尾夫人につききりで、土曜の午後は夫妻を相手に、初歩的な会話や読み書きを教えている。依頼を受ける際、仏蘭西語よりも英語のほうが使い勝手が良いのではないかと尋ねたが、夫人のたっての希望で仏蘭西語ということになった。
 居留地は十数年前に市に返還されたが、時の仏蘭西領事がこの港町を愛惜したことから、いまだ神戸には、仏蘭西への憧憬と親愛が根強く残っている。夫人の言も、そうした風潮を受けてのことらしかった。

 そして、あの日。
 わたしたちは、薄暗い土蔵の二階で初めて顔を合わせた。
『はじめまして……御祇島、先生』
 その声も姿も、いまにも消えゆく淡雪のようで。
 わたしは挨拶を返し、香澄の手に、手土産がわりにと買ってきたはんくすのつまみかんざしを乗せた。値の割には子供っぽい、露店で売っているような他愛のない品だったが、香澄は嬉しそうに目を細めた。
『かわいい。香澄、大切にします』
 病ゆえの儚げな笑みが、その頬に刻まれる。
 ひと目で、病状は軽くないのだと知れた。
 この命は、遠からぬうちに地上から消え去るだろう。
 彼女の閉ざされた未来を思うにつけ、遅きに過ぎた出会いが悔やまれた。

「秋まで……いや、とても持つまい」
 香澄の顔が思い浮かび、胸のうちがキリと痛む。
 人の死など、もはや数え切れぬほど――それこそ飽きるほど目にしてきたというのに、こうしてごくたまに、心のどこかが動くことがある。
 人の死など、当たり前すぎて、もう何の感慨もないはずだった。ときには、この手で人の命を狩ることすらあるのだ。こんなわたしが、死を前にした者、限りある生をひた走る者に心を掛けるのは、その命を弄ぶことになるのだろうか。
 考えるほどに気持ちがすさみ、それにつられて、あと半月は抑えられるはずの渇きまでが呼び覚まされていく。知らず、鍵盤を叩く指が荒くなると、聡い愛猫が頭をもたげた。
「耳障りだったかい? どうも集中できなくてね」
 愛猫の探るような視線をかわして、ピアノから離れる。
 窓の外には、いかにも梅雨の晴れ間らしい、憎らしいほど眩しい陽光が満ちあふれていた。こんな日の、しかも日差しが最も強い時間帯に外出すれば、いくらわたしでも消耗は免れない。これが長尾夫妻だけの話なら、今日の授業など、なにか適当な口実をつけて断るところだ。だが、香澄がわたしの訪いを待っているかと思うと、腰を上げないわけにはいかなかった。

 

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