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ノンジャンル

欠落した“何か”

   2016年1月27日  

 仁斗が自分の演奏を聴きに来ると決まり、その瞬間は純粋に嬉しかった速斗。
 しかし諒人の音楽を心底楽しむ姿と音を聴いて以降、諒人が持っていて自分には知らず知らずのうちに欠落してしまっている“何か”が存在していることに気が付く。
 それ以降どうしても自分の奏でる音に納得ができない速斗。
 兄の苦悩を心配する、妹の優菜。
 優菜の仁斗への想いは決して良いものではない。
 速斗の本心を知りながらも速斗に手を差し伸べずにいる仁斗の姿は、優奈から見れば腑に落ちないものだった。

 欠落した“何か”を手にできないまま、約束の土曜日を迎えてしまった。
 予約時間通りに仁斗はレストランに姿を現せ、大学卒業以来、心治と再会を果たしたのだった。

 

 
 仁斗が自分のピアノを聴きに来る。
 それが決まった瞬間は、ただ嬉しかった。
 仁斗に会いたい。
 仁斗と一緒にいたい。
 速斗の中にその想いが絶える日はなかったし、今回聴きに来てくれるのは自分の実力を仁斗に見せる恰好の機会だとさえ思った。
 だがこの時の速斗は知らなかったのだ。
 この世の中には、“ピンチはチャンス”という言葉がある。
 その逆に“チャンスがピンチ”という現実が確実に存在している。
 速斗は今まさにそれなわけだ。
 諒人のあまりにも純粋で音楽そのものを楽しんでいるさまを目の当たりにしてしまい、それ以来自分の音がどうしても気に食わないままでいる。
 これだと決めた曲に対して、速斗はいつでも真摯に向き合う。
 朝はCDを聴きながらイメージを作りながら登校し、部活までこなして帰宅するとその足でシャワーを浴びに行ってそのままピアノの部屋にこもってしまう。
 防音設備が整っているピアノの部屋で深夜まで練習するという毎日を送っている。
 できることは手を尽くしいているが、努力すればその分空回りしている気がしてならない。
 技術ではない“何か”が、自分の中から欠落している。
 それはわかっているが、その“何か”がどうしても手に入らない。
 日が過ぎていくにつれて、気持ちばかりが焦っていく。
「はぁ…。」
 仁斗との再会を明後日に控えてなお、速斗はどうしようもなく焦り続けていた。
 ため息をつく事しか出来ない。
 楽譜にはこれでもかと真っ黒になるまで鉛筆で書き込みをして、何度も構想を練り直し、表現方法を変えてきた。
 それでも速斗自身が求める音が奏でられない。
 今日何度目かもわからないため息をついて、ピアノの椅子にもたれかかって天井を仰ぐ。
 脱力してしまった全身が重い。
 技術的なもの以外の部分の無力さに虚しさすらも覚える。
 どうしていいのかわからないと、頭の片隅ではわかっていた。
 わかったところで諦めるわけにはいかず、ここまで努力を重ねてきたわけだ。
 呆然とするしかなくなったとき、部屋のドアがコンコンとノックされた。
 声を上げる気力も迎え入れる体力もなくて、椅子のもたれかかったまま視線のみをドアに向けた。
 するとドアが遠慮がちにゆっくりと開く。
「…お兄ちゃん、入っていい?」
 ドアの向こうからそろりと顔を覗かせたのは、五つ年下の妹の優菜だった。
「ごめんね、ピアノ独占しちゃって。」
 優菜の姿を見るなり、速斗は笑顔を取り繕い彼女に笑いかける。
「ご飯食べてないでしょ? おにぎり持ってきたよ。」
 速斗の笑顔に無駄な詮索はせず、お盆に乗せたラップにくるんだおにぎりを差し出した。
 ピアノは手が汚れたら洗いに行かなければならない。
 よって練習中に食べ物を差し入れる場合は、袋かラップにくるんで渡す。
 何気ない優菜の優しさが、速斗の心の中に溜まりこんだ岩のような重しを軽減させていく。
「ありがとう。」
 まだ十二歳の妹にこんな気遣いをさせてしまうほどピリピリした雰囲気を発していたのかと、速斗は自分自身が情けなくてならなかった。

 優菜を部屋に導き、兄妹並んで床に座ってピアノの椅子を机代わりにして優菜の差し入れを手に取った。

 ──あったかい。

 作りたてのそれは、まだラップの外にもうちにも汗をかいていない。
 手から伝わるおにぎりの温かさが人の体温に近くて、仁斗との再会が決まってから久しくその温かさに触れていなかったことに今更気が付いた。
「いただきます。」
 ラップからおにぎりの頭を出し、ぱくりとおにぎりを頬張ると。
「…おいしい。」
 速斗の表情は無意識のうちに緩んだ。
「よかった。喜んでもらえて嬉しい。」
 優菜の表情も、少しだけ明るくなった。
 優菜の笑顔に、速斗の肩から自然と力が抜ける。
 妹はやはりかわいい。
 顔と雰囲気が自分に似ているから、なおさらなのだろうか。
「無理しすぎると体に悪いから、今日は早めに寝てね。」
 優菜はそれだけ速斗に行って、部屋を出た。

 優菜は仁斗をよく知らないし、あまり記憶に色濃く残っているというわけでもない。
 しかし優菜は、仁斗を好きになれずにいる。
 仁斗が速斗を振り回しているようにしか見えないからだ。
 仁斗が帰れば、速斗が喜ぶ。
 速斗が仁斗寄せている信頼の厚さは、優奈もよく知っている。
 普段は自分に優しい兄速斗だが、仁斗の前では弟である。
 優菜には絶対に見せない弱さを、仁斗の前では出す。
 でも、速斗は自分がやりたいことを仁斗には言えずにいる。
 仁斗に対する嫉妬もあるが、本心を隠し続けたまま甘える速斗がかわいそうでならない。
 そして速斗が本心が言えないということをわかっているのに、手を差し伸べるどころか払いのけるようなことをする仁斗の心情が理解できない。
 仁斗にも事情があるのだろうが、それでも優菜の腑に落ちない。

 ──どうかお兄ちゃんがもう苦しまないような結果が出ますように。

 自室のベッドに入り、目を閉じて優菜はそっと月に願うのだった。

 

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