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“音楽”

   2016年2月3日  

 不安を抱えたまま迎えた、仁斗来店の日。
 仁斗が目にしたのは、自分の知っている幼いままの速斗ではなく立派に接客する弟の姿だった。
 しかし不安がつきまとう速斗は、仁斗には全くの不愛想。
 仁斗にからかわれ、少し肩の力が抜けたものの演奏はやはり思い通りのものではなかった。

 速斗の演奏を聴いた仁斗は、腰を上げピアノに向かう。
 そして速斗に自らの“音楽”を見せるのだった。

 

 
 接客中の速斗は初めて見るが、そこにいるのは仁斗が知っている速斗の姿はなかった。
 ずっと自分の背中ばかり追いかけていた甘えん坊だったのに、今仁斗の目に映っている速斗は客当たりの良い爽やかな雰囲気で接客業を立派にこなしている。
 この兄弟にとっての八歳の年の差は、あまりにも大きかったのだ。
 客からの印象もいいようで、若干むさ苦しい自分に似なくてよかったと仁斗はほっと胸を撫でおろした。
 仁斗が来店した際に接客中だって速斗は、仁斗が店に入ったことにまだ気が付いていない。
 担当した客の会計まで責任を持ってやり通し、彼らの背を見送りカウンターの方を振りむいた瞬間。
「あっ。」
 速斗の口から小さな声が漏れた。
「ヨッ!」
 速斗に手を振り、ニッと笑う仁斗。
 いつもなら嬉しさを前面に押し出して急いでこちらに駆け寄ってくるのに、速斗は仁斗からそっと視線をそれしてホールの方に歩いて行ってしまった。
 速斗の様子がいつもと露骨に違いすぎる。

 ──何かある。

 マスターと心治は同時にそう思い、視線を交えた後小さく頷いて不敵な含み笑いを浮かべている仁斗の横顔を盗み見たのだった。

 ホールでやり残した雑務を済ませ、速斗が仁斗のもとに歩いてきた。
「いらっしゃいませ。ピアノフォルテへようこそ。本日はご指名して頂き、ありがとうございます。」
 いつもの決まり文句を口走る速斗だが、通常勤務中の笑顔は一切ない。
 それどころか仁斗と視線すらも交えない有様である。
 ただただ不愛想なのとはわけが違う。
 表情と声から伝わる緊張感。
 そう、速斗はどうしようもなく緊張しているのだ。
「おい。」
 速斗の接客マニュアルをひとしきり聞いた時点で、仁斗は速斗に声を投げつけた。
「…はい。」
 呼ばれている。
 目を見なければ。
 わかっているのに体が言うことを聞いてくれない。
 練習で自らが納得できるものが仕上がらなかったのに、仁斗の前でパーフェクトなものを披露する自信が持てない。
 今日これからの演奏を聴いた仁斗から、三下り半を突きつけられそうでならない。
 速斗の頭の中では、不安が不安を呼んで大きな渦を巻いていた。
 不安に染まる弟の頬を勢いよく片手で挟んで、自分の顔の前に力ずくで引き寄せた。
「さっきの客にはニコニコしてたのに、俺には仏頂面ってのは寂しいなぁ、速斗。」
 有無を言わせない仁斗の強力な眼力を直視してしまい、速斗はうっと息を詰まらせた。
「なに緊張してやがる。らしくねぇ。そんなんだからおれの背中なんか追われちゃ困るんだよ。お前がひっ捕まえたがってるこの背中は、お前が思うほど身近じゃねんだ。それでも追っかけてくんなら、緊張せんような練習とメンタルを持つんだな。」
 言われたい放題言われて黙っているほど速斗も温厚ではない。
 ムッとして速斗は仁斗を睨みつけた。
「もう!」
 そして思い切り仁斗の手を振り払った。

 ──俺の気も知らないで…!

 この日を迎えるまでにどれほど苦悩し、今もなお不安と戦っているか。
 心臓が剛毛だらけの仁斗にはわからなくて当然なわけだが、僅かでもいいから感じ取ってくれてもいいじゃないかと、速斗は仁斗にイライラを素直にぶつけた。
「俺に負けたくなきゃ、お前の“音楽”を聴かせてみろ。」
 速斗がどれだけ噛みついても、仁斗はいつだって余裕である。
「言われなくてもそうするよ!」
 他人に怒りの感情を見せない速斗だが、仁斗には容赦なく吠えかかる。
「そりゃ楽しみだ。」
 速斗を手玉にとって遊んでいるあたり、やはり仁斗は若干意地悪なのである。

 

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