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失うものは何もない

   2016年2月17日  

 飛由の言葉かけで、速斗は自らの幼少期のことを思い出す。
 そこからなくしたものを見出し、それが自分の音楽には不可欠であったことも思い出した。

 速斗のその様子を見て、飛由は再度仁斗に演奏を聴いてもらえる手はずを強引に取り付けに行くことを速斗に宣言してスタッフルームを出た。
 さっきの今で無理だと尻込みをしたが、変わるならば今かもしれないと速斗も自らを鼓舞してスタッフルームを後にしたのだった。

 

 
 飛由の助言はいつも大きな力をもたらしてくれる。
 しかし今回ほど衝撃が強いものはなかった。
 ―子どもの頃、一体どんな音を奏でてたんだろう…。
 記憶に埋もれた幼少期の記憶を、速斗は漁り始めた。

 幼少期から速斗はお兄ちゃん子だった。
 何をするのも仁斗と一緒で、どこに行くのも仁斗の後を追っかけていた。
「仁君、あのね!聞いてよ仁斗!」
 仁斗の背中を追っかけながら、速斗は仁斗の背中に常に話しかけ続けていた。
 仁斗に振り向いてほしい。
 自分だけを見てほしい。
 どんな時でも速斗を優先していた仁斗。
 それでも速斗は、いつか仁斗が自分の目の前からいなくなってしまうのではないかと不安でならなかった。
 だから他愛ない話を仁斗にし続けていたのかもしれない。
「今日ね、今日ね!」
 仁斗だってずっと速斗に付き合っていたいが、そういうわけにもいかない。
 ピアノの練習をしなければならないのだ。
 仁斗が楽譜を手に取ると、音楽から仁斗を奪われたような気持になって、速斗は妙に苛立った。
 ピアノをし始めると、自分の方を見てくれない。
 それはおろか練習中の私語は厳禁と、母である仁亜麻から厳しく叩き込まれていた。
 ピアノに仁斗を奪われたくない一心で、仁斗が楽譜をあがめ始めたら我さきへとピアノの椅子に腰かけた。
 話しかけても無駄ならば、ピアノを弾いてこちらに気持ちを移させる他ない。
 だがただピアノを弾くだけだったら、仁斗にはなにも伝わらない。
 だから速斗は幼いながらに試行錯誤を重ねて、ある手段を編み出した。
「今日は何があったでしょうかっ?」
 椅子の上から仁斗に一声かけて、速斗はピアノを弾き始める。
 その日あった今日の一番の気持ちをピアノに乗せて、メロディを謳う。
“今日はね、楽しい事があったんだ!”
“今日は悲しい事があったんだ…。”
“ちょっときいてよ!頭に来た!”
 速斗の奏でるピアノは、まるで速斗が話しているかのように表情豊かに仁斗に語り掛けてくる。
 その音は、仁斗安らぎをもたらしていて。
 つい自分の練習を二の次にして、速斗の話に耳を傾けたくなるほどだった。
「今日はどんな楽しい事があったんだ?」
 いつまでたっても自分にだけこうして甘えてくる弟。
 それだけでもかわいくて仕方ないのに、速斗は音楽では公平な目を持っている仁斗の気を速斗自身に向ける音色を無意識ながらに持っている。
 だからなおさら速斗の話を聞かずにはいられなかった。
 気持ちを込めて理想を思い描きながら演奏すると、仁斗が喜んでくれてその上話まで聞いてくれる。
 それが嬉しくてならなかったのが速斗の幼少期の思い出だった。

 

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